意味がないということを快感に思うときがある。

「おまえのブログには意味がない」

そんなことは言われなくとも分かっているし、そういった"意味" の話ではない。
それをやったところで無駄だという"意味" がちゃんとそこにはある。

そうではなくてその文節、単語そのものに意味がないことが面白いと言っているのだ。
それも出来れば意味のあるモノから「ス〜」っと抜けてゆくのが望ましい。

殆どの言葉はそれなりの意味を持っているであろうが、そこからそれが抜け落ちたとしたら。
結果、単なる音になったとしたらどうだろう。

以前、当ブログにも"コトバノチカラ"のタイトルで、言葉には力があり、舐めてかかると恐ろしいものである旨の内容を書いたが、それも意味があってこそであり、単にフレームだけの"言葉"は言葉ですらなく、ただの音だろう。

これは突拍子もない事を言っているのではなく、(いや、突拍子もないが)何でもいいのだが例えば「鉛筆」という言葉を何度も何度も繰り返し口に出して言い続けていると単に音としての「enpitu」だけが残り、意味が抜けていく瞬間を感じることがある。

そこに何も意味はなく、雨音のような、鳥の鳴き声のような、唯サウンドのみが耳に届く。

これを言葉への復讐と言ったのはタモリ氏だったか。

言葉は諸刃の剣であって、己の気持ちや意見を伝えるツール、物事に斬り込んでいく武器として有能ではあるが、同時に返す刀で此方が傷つく状況もある。

言葉に苦しめられた者にとって、そこから意味をなくすことは確かに言葉への復讐だろう。

アンタたちは意味を持たせてもらっているから大きな顔をしていられるのであって、見ての通り(聞いての通り)本来ただの音だぞ!と。

"言葉− 意味 = ただの音"

世に言うdaitaismの公式である。
(勿論、ただ言っただけ)

これ、凄く快感なのだが。

言葉というものは其々に意味を持たせているから会話が成り立つのであり、それは丁度全く意味の分からない外国語を聞いても音としか感じないように、普段使用している言語から、もしある日突然、意味が抜け落ちてしまったとしたら。

「たせもな」という"音" を聞いても何も思わないのはそこに意味を伴わせていないからで、「らやたなまわや。なさかなら、やたやはさあああ!せせもり?」と聞かれても「?」としか反応しようがない。

仮りに、今まで世に溢れていた言葉がその役割を唐突に奪われるとしよう。
あらゆる物の名前を失い、人間同士のコミュニケーションは停止するのだ。
人々の精神は彷徨い、秩序の保持が難しくなってしまうだろう。

累々と言葉の屍が無数に連なるイメージは「かかる曠野(こうや)の流浪である」(坂口安吾)の言葉を彷彿させる。

その後人間はどうするのか。
それでもコミュニケーションを取るべく、態度から、表情から、振る舞いから意思を伝えようとし、ついには再び言葉に意味を持たせるところまで到達するのだろうか。

とまれ、かようにアタマの中での遊びは楽しいし、言葉に意味があることの重要さに改めて思い至るのだから無益ではない。
ま、無益であったとしても知ったことではないのだ。


本日はそのような結論である。