電車に乗ってドアの所に立ち、窓外に流れゆく景色やヒトを見るのが好きである。

何かを見ながら歩いている若者、見ずともそれを握って歩いている人もいる。

言わずと知れたスマートフォンである。
(以前も書いたが"スマートフォン"を略すなら「スマフォ」だろう。まぁ、そんなところでひとり抗うのもなんだし、何より字数が多いのでメンドクサくもあり、今後は慚愧の念を持って「スマホ」表記にする。実際はそれほど残念な気はない。)

車内に目を向けると長いシートに座っている7人は

📱📱📱📱💤📱📱

という感じで寝ているお方が1人いるかいないかぐらいであり、私の感覚としては9割強ぐらいの乗客はスマホとにらめっこをしている印象がある。

確かに現代では必要不可欠なハードになりつつはあるのだろう。
あの小さな筐体にこれでもかと言わんばかりの情報が詰まり、そこには「無限」と言っていいほどの可能性があるのかもしれない。
元は電話のくせに。

かと言ってなんでも出来るという訳でもあるまい。
料理は作ってくれないし、ズボンの裾上げはしてくれない、炬燵をしまってもくれなければ、永年会いたかった人を連れてきてくれる訳でもない。
嫌な人からの電話を繋がないことすらできないのだ。
出来ないことの方が多いだろう。

先日、それが壊れた。

いきなり画面が黒く落ち、そのままウンともスンとも言わなくなったのだ。
(「ウン」と言われたらそれはそれで壊れているとは思うが。)

ちっともスマートではないその状態を把握しに行ったところ、「完全に壊れていますね。」との返事。

つれないではないか。
出来ないことの方が多くとも、何かと便利なことには違いなく、数多の個人情報も詰まってはいるので新しいものを手に入れることを考え始めた。

色々と調べていくうちに「スマホは消耗品」との文言に行き当たる。

そうなのか?
確かに全てのものは消耗品だろう。
"全ての男は消耗品である"という本もあるぐらいだ。

しかし、性能がズバ抜けている精密機器であり、だから安いものではない商品が「消耗品」などと言ってしまって良いのだろうか。

モノによっては10万円を超える製品が数年使用しただけで買い替えを余儀なくされるとは何かが間違っているような気がするのだ。

ギターなんて一生使えるものがザラにある。
(例にならないものを引っ張り出したな感は、私も恥じていないが感じてはいる。)


パソコンなどもそうだが、長らく使い得るような耐用年数の高い製品の開発、部品をキープすること等のアフターケアにメーカーはもう少し本腰を入れて欲しいものだ。

新しいものを買うということはお金が回る訳で、ひいては景気にも好影響を与えるのは分かる。
分かるのだが「消費する」ことが当然であり「買い替え」という行為が不可欠になってゆく社会においてニンゲンだけが時を経ずして「消耗品」になることから逃れられるのだろうか。

現代の機器は使いようによっては便利なものだが、場合によっては人を疲弊させる物になってはいないか。
正に奴等に使われてはならないのだ。

スマホを持たずにいた間は結び付いていた紐から自由になれた感じがして悪くはなかった。
休日に会社から連絡が来ることもない。
スマホが無い日々で困ったことと言えばブログを書けないことや、背中が痒くなったこと、庭木の剪定が上手くいかなかったことや、足の小指を箪笥の角に強打したことぐらいである。

それでもスマホの外側にいた間に届いた着信やメール・LINE等相当数に上るであろうし、既読にすらならないのを心配している友もいるだろう。
各人に詫びを入れ、その理由も伝えなければなるまい。

約1週間ほどスマホ無しの生活をした後、新しい機種を手に入れ、旧データを復元させ開いてみた。

どれどれ。
LINEとフィッシング詐欺紛いのメールが其々1件あるだけであった。。。
絶世の美女からの連絡も受け取ってはくれないのだ。


やはりスマホは出来ないことの方が多い。