例えば、自分の感情の沸き立つ様を他人には理解して貰えないと感じ、いや、自身でさえ分からないにもかかわらず、ある人物が現れたとき それに気付くという経験はないだろうか。

理解するというより他人を「見る」ことで初めて自分を俯瞰視出来たような。
まるで合わせ鏡を見るように。
 
韓国映画 "息もできない" は幼い頃父親から受けた暴力により心に傷を抱え、自分を表現するときに暴力を使う事しか出来ない男と、母を亡くし、痴呆の始まった父と素行不良の弟と暮らす閉塞感に満ちた女子高生の "純愛" の物語。
 
棘(トゲ)を持った者同士が擦れ合う事によってその先端も鈍くなり、また相手の中に自身を見たような気がして無意識の内に惹かれあってゆく。

それでも依存し合うのでは無く、理解者として自分が支えられている事を互いに自覚しつつ、決して混じり合うことのない平行線のまま歩み、且つその距離が表向き0になることはない。

その自覚が愛へと変わっていく瞬間々々が痛々しい。
それと分かるような直截的表現はこの映画に一切無く、愛と呼ぶにはあまりに幼く、不器用なのだが、それが愛であるのは誰の目にも明らかだ。

And in the end the love you take is equal to the love you make
 
「そして結局、貴方の受ける愛は 貴方の与えるそれに等しい」
 
とビートルズは歌った。
確かにその通りだろう。

しかしそうであるなら、愛を受けた事の無い人間は与える事が出来ないのだろうか。
愛したくても愛し方の分からない人間はどうしたらいいのか。
 
その答えはこの映画の中にあると思う。
こんなに哀しくて切なくて、そして優しい物語があるだろうか。
 
"二人でいる時だけ、泣けた"


*「愛」を容易く使うことに個人的な含羞の想いはあるが、当稿では敢えてそう書いた。