「電子書籍が苦手である」旨の発言をたまに見かける。
それに私も同感である。
 
本を手にしたときの重さや、紙の質感、開いた時に立ち昇る、紙なのかインクなのか「本」としか言いようのない香り、ページをめくる音、読み進むにつれ薄くなっていく残りの厚みを感じつつ、最終章へなだれ込む気分の盛り上がり。

 井上治子著 「想像力」に
『ラーメンを食べる行為は本来なら口へ入れて咀嚼し飲み込むだけの事のように見えるが、実際はお店に入った時の匂い、注文して待つ時間の期待、カウンターの向こうで麺の湯切りをする音、目の前に置かれたラーメンの見た目、そこから立ち昇る香り、箸で麺をすくい上げる時の指先の感触、すする音、口に入れて感じる熱さと咀嚼時の食感、味わいながら飲み込み喉から胃の腑へ落ちて行く感覚、次の一口への期待・・視覚、触覚、嗅覚、聴覚、味覚のバラバラの知覚要素が一つに結びついたときにはじめてラーメンの味を経験すると言えるのだ』
(大意)
旨の記述がある。

なるほど、我々はそれら五感+想像力を使ってたった一杯のラーメンを食べているわけだ。
 
本を読むという行為に味覚こそないけれど(いや、『内容を味わう』のはある意味、味覚かもしれない。)それらの感覚機能をフルに使うのが「本を読む」、もっと大袈裟に言えば「本を経験する」ことだと思う。

それぞれ「内容を理解しホンの少しの知識を得る」「食事をする」という意味に於いては最小限の事柄で済むのだが、それだけではないのが人間の不思議なところでもあり面白くもあり、また豊かなところだろう。


 小休止をとる為 本を置き、珈琲を淹れに行っている間に、(実はトイレだったりもするのだが)開けた窓から入ってきた風がめくったのだろう、戻ってみると読んでいたのとは違うページが開かれているときもある。
なんだかいい気分。

電子書籍。
あれは単に飲み込むだけのものだ。
合理なものを好む私でもそう思う。
 
一☆一☆一☆一

上記、書いたのは随分と昔のこと。
さぁ、ここからは掌返しの時間である。

今現在、気が付くとタブレットやスマートフォンによる読書をしている私がいた。

だって字が大きくて見やすいんだこれが。
背に腹はかえられないのだ。
(ただ、スマートフォンで読むと字を大きくできるのはいいのだが、そうすると1ページ分の文字数が少ない分、次へとめくる回数が多くなり忙しないことこの上ない。)

そして、食べ物を噛み砕いて飲み込むだけでもヒトは生きていける。
(「飲み込むだけの栄養摂取で生きるなど、私は望まない」というのは同意できる意見であるが、今それについて語ってはいない。)
この場合、大事なのは命を繋ぐということだ。

同じようにデジタルの画面上の文字でも情報を得ることはできる。
字が小さくて読みにくい等の理由で本から遠ざかるぐらいなら電子書籍を読めばいい。
ここで大事なのは識るということだ。

どちらが好きかと問われれば当然、紙の本を読むことだと答えるだろう。

しかしながら便利さも悪くない一面を持つ。
当たり前である。

たとえ風のめくるページがないとしても。