あるひとつの言葉、なんでもいいのだが、例えば「美しい」を何度も何度も繰り返し口にしてみる。

すると段々音だけが頭に残り始め、意味がスーッと抜けていく瞬間を感じることはないだろうか。

単に音としての

"u tu ku si i "

だけがリフレインされるのだ。

これはもの凄く快感であり、タモリ氏はこれを「言葉への復讐」と言っていた記憶がある。
「どうだ、お前から意味を取り除いてやったぜ」のようなものだと解釈したが、翻って何故言葉には意味があるのだろうかと思う。
何故ただの音ではないのだろうか。

いや、もしかしたらただの音なのかもしれない。
それに意味を持たせたのがニンゲンなのではないだろうか。

「はじめに言葉ありき」と謳ったのはかの聖書だが、本当にそうだろうか。
はじめにあるのは存在だと思うのだ。

先ず、言葉を持たない人類が存在しはじめ、そのうちに言葉は人々の意思疎通の第一歩として意味のない「音」としてあり、言い易かったり、また何度も繰り返されるものに意味を持たせていったような気がする。
「気がする」という以上、いつものように客観性は皆無である。

ところで、言葉は幾つぐらいあるのだろう。
例えば日本語に限定するとしても、である。

自分の言いたいことや感じていることを伝えるのに、気分に合う言葉がないときがある。

「この言葉では無理なんだ、想いを伝えることは」

私が単に言葉を知らないだけのことかもしれないが、それはともかく今までどこでも使われたことのない言葉をくれ!と思うことがある。


※ 尚、表題は訓令式ローマ字であり、本来の日本語に則った表記である。