「ねえ。私、家を出ちゃ駄目かな」
妻が言う。
結婚後も長らく会社勤めをしたのち、早期退社した妻は、自身の若い頃からの夢である絵本を描く表現者になることを望み、作品を創り始めた。
一年が過ぎた頃、幸運にも作品を発表することが出来、また幼稚園の冊子を手掛ける仕事もこなすようになる。
会社勤めの頃にはあまり見ることのなかった生き生きとした表情と共に。
また、改めて絵についての勉強も始め、本格的に創作活動をする為に、より良い環境に身を置きたいという想いが日々募っていったようだ。
都会の狭い家では絵を描く専用の部屋など持てる筈もない。
そんなある日、妻が発したのが冒頭の言葉である。
男は二つ返事で
「いいんじゃないかな、君がずっとやりたかったことなんでしょ?やったら良いよ。」
そう返事をする。
拍子抜けするほど簡単に言う男に向かい
「あ、いいのね。ありがとう。」
意外な面持ちのまま呟くように言う。
以前より、子供に手がかからなくなり、我々夫婦も歳を取ったらお互いに好きなことをして生きていこうと話し合っていた。
例えそれが物理的に離れることになってもだ。
つまり、男にとって妻の告白は青天の霹靂というものでもなく、いつかそうなるだろうとの予測は既についていた。
妻は友人や知人に少しずつその計画を打ち明けてゆく。
「いや、絶対ダメだよ。」
「夫婦は一緒にいなくちゃ。」
「それはどうなのかな。」
そんな言葉が返ってくるのは当然だろう。
謂わば別居なのだから。
仲が悪くての選択ならまだしも、円満別居は長いスパンで見れば別れをもたらす契機になると思うのも無理はない。
しかし妻はこうと決めたらどんどん事を進めてゆくタイプだ。
アトリエとなる住処を探し、準備を整え、引っ越しの日はあっという間にやって来た。
その日、男は仕事に行かなければならず、家を出る妻の見送りは出来ない。
特に感傷に浸ることもなく、お互い淡々と声を掛け合う。
「じゃあ、良い作品創ってね、楽しみにしてる。俺は俺でやりたかった事へ向かっているから。」
「ありがとう。頑張ってみる。」
そして妻は、日本一といわれる山を望むことのできる、とある山間の町の住人となった。
我々は互いを必要としなくなっているのだろうか。
そうかもしれない。
しかし、其々が自身で生活できる力があるということだ、ネガティブな話ではないだろう。
子供はとうに独立していて、数年前まで寝食を共にした家族が皆其々の生き方をし、別々の所に住むことになる。
家族にも様々なカタチがあるのだ。
そして新たな生活の始まり。
今度会うのはいつになるのだろう。
一☆一☆一☆一
あれから3週間が過ぎた。
イルミネーションに彩られた街はクリスマスの賑わいに溢れ、行き交う人々も皆足取り軽く、気温が下がってきたのとは裏腹に、心の温度が上がっているようにも見える。
総じて世の中は、新しくやってくる一年に希望を託し、また勢いよく年始のスタートを切るべく、疾走し始めたようだ。
そんなことを感じながら歩いていると、食事を済ませたのだろう、モダンな外観のイタリアンレストランから出てきた夫婦と思しき男女が和かに、そして互いに優しい表情を相手に届けながら会話をしている。
仲が良さそうだ。
男はふと気付き、立ち止まる。
そうか。
結婚してから初めて一緒に過ごさないクリスマスじゃないか。
いや、取り立てて特別なことをするわけではないぐらいの年月は既に経っている。
それでも何年ぶりの1人のクリスマスになるのだろう。
ええと。
しかしそんな簡単な計算すら面倒になり、(まあ、そんなことどうでもいいや)と思う。
お互いが何処にいても、どれだけ離れていても俺たちは夫婦なのだから。
今までも。そしてこれからも。
空気はいっそう冷たくなり、風に舞い始めた雪が街灯を滲ませている。
手のひらに小さな雪片がふんわり降りてきた。
山の町はさぞかし冷えていることだろう。
何処からか、懐かしいロッカバラードが聴こえてくる。
聴き馴染んだドン・ヘンリーの声だ。
ほんの少しだけ寂しさを感じた男は持っていたバッグからマフラーを取り出し、首に巻き付けると少し背中を丸めて再び歩きだす。
そして誰にも聞こえぬよう、囁くような声で小さく呟いた。
"メリークリスマス "