毎日の生活の中で

「これはこうしたい」

という考え(又は感覚)は全ての事柄にあるだろう。

そして其れ等は全ての人が其々違う想いを持っていることは疑いようがない。

哲学というものがある。
考えることの好きな者にとって魅力溢るる分野であろう。

哲学というと小難しく、やれソクラテスだ、プラトンだ、アリストテレスだ、のような聞いたことのある、昔のヒトが出てきて「何だかわからないけど、アタマのいい人が考えることでしょ?」と感じている人は多いのではないだろうか。

私が初めて哲学という存在を知ったのは忘れもしない、え〜とあれはいつのことだっただろう。
ちょっと忘却曲線に飲み込まれてしまったようだが、「アキレスと亀」や「飛んでいる矢は飛ばない」「世界は5分前に造られた」等のパラドックスを知って、一見もっともらしいが、誰も信じないだろう、そんなことというのが第一印象であった。

しかし私は面白かった。
ヘリクツかも知れないが、論理展開していくと、感覚として受け入れ難いことや、あり得ない結論に至ることもあるのかという気付き。

論を進めるのに言葉の表す範囲や意味の解釈によって(例えば"時間"というものをどういった前提の元に考えるのか等)全然違うものになるのも興味深く、又古の哲学者が発見した考察をその弟子が「師匠、それは違うでしょ。」と別の考えを述べるのを読むと、哲学に答えはないのだと知る。

また哲学者とは、モノゴトの真理に立ち向かってゆく覚悟を持った者のことだとも私は思っているが、そこへ到達する道筋は無限にあるのだ。

考え方はそれこそ無数にあって、私は色々ある想いを一つのところに収めんと、架空の本棚(当ブログ #150 架空の本棚参照)に置き場所を確保中である。
もし、そんなことが叶うならそれこそが自身の哲学の芯になると漠然と考えている。

ただ、世の中の森羅万象をテツガク的に斬るとか、明晰な頭脳が必要とか、それほど大袈裟な話ではなくともいいだろう。

確かにアタマのいい人は一定数いる。

しかし哲学とは「アタマのいい」連中だけのものではなく、誰もが (つまりは私や貴方が)、感じた (これは何故なんだろう?) や (どうするべきか) を改めて考えることであり、例えばある状況に立ち会った時、自身の為す行動を決定づける考え方や、信念、その辺りのナニモノカのことであって、己が自身で決めているそのことが自分の哲学と呼べるものなのではないか。

孔子などは正に自身の行動規範のようなものを儒教として遺し、それも哲学と言える。

哲学というのはとりも直さず生き方のことなのだろうと思う。
それで良いのだ。
だから哲学に正解はない。
一部のヒトタチのものではない。
みんなのものだ。