昔、伊丹十三という表現者が次のような主旨の発言をした。

「例えば宗谷岬のように、日本最北端であるとか、最も高いというような極みの地点にヒトは行きたがる。それは、自分が何者か、社会的にどんな位置にいるのか分からない故、例えば北端に立てば(今この瞬間、日本で最も北の果てにいるのは私だけだ。)という何某かのポジション、意味を持ったように感じるからではないか」 

なるほどそれはあるかも知れないと思ったものである。

そんな訳で私も意味を感じてみようと極みに行ってみた。

その場所はユーラシア大陸最西端、ポルトガルのCabo da roca・ロカ岬である。

首都リスボンから25kmほどのところにあり、電車とバスを乗り継いでやっと到着。

埃の舞う、白っぽい大地が剥き出しになった地の果ての向こう側に見える大きな海が太陽の光をキラキラと反射させている。
小さな燈台があり、その近くにはこれまた小さな観光案内のオフィスがある。

どれ、地の果てまで行ってみよう。

視野から段々と淡いベージュ色をした陸地が減っていき、大洋がその姿を大きく見せ始める。
ユーラシア大陸最西端の先に広がる大西洋だ。

近くに詩人カモンイスの詠んだ詩の一節が刻まれた石碑が建っている。

「Onde a terra acaba e o mar comeca」
(ここに地終わり海が始まる)

そして地面が終わっている地点に遂に立つ。
それ以上歩いたら海へダイブしてしまう。

今、ユーラシア大陸にいる数多の人々の中で、誰よりも最西端に立って風に吹かれているのは私なのだ。
目の前の海の先には北アメリカ大陸がある。

・・・・。

ここまで来たかの想いはあるものの、特にスペシャルな意味をもたらしたようにも思えず、(なんか腹へったな)と感じただけである。

それでも一応は「最西端到達証明書」を貰いにオフィスへ向かう。
行くとそれは貰うではなく買うのだった。

日付けの入った証書はしっかりとした厚紙でサイズは25cm×30cmほどあり、手にしたヨロコビよりも、(デカいな。リュックに入れたらひしゃげるだろコレ)と思ったものだ。
(実際に折れ曲がった)

証書は手にしたものの大した感慨もなく、しれっとロカ岬を後にする。
かなりの空腹を覚えた私は来る時に見つけておいた小さな食堂に入り、せっかく最西端まで来たのだから食べまくった。
そこになんの関係があるのかは分からないが、とにかく食べた。
値段もメチャクチャ安いことだし。

「嗚呼、もうムリ」
口を開ければ、絶対喉元に見えているだろ!と思うほど食べた私は(これで1週間ほどメシ無しでいけるな、グフフ)と思いながらリスボンへ戻る。

しかし不思議なことにその晩、再び空腹を覚える。
しかも振り切った針が反対側へ揺り戻されたように、超の付くほどの空腹である。

おかしい。
あれほどたらふく食べたのに。

仕方ない、何かを食べにいこうとしたところ、所持金が日本円で135円ぐらいしかないことに気付く。

(え?昼間そんなに使ったっけ)

両替所も近くになく、今ある金額全てをはたいてお菓子屋さんで小さなケーキをゲット。

朝になればユースホステルの朝食にありつけるのだ、今夜はこいつを食べて早いとこ寝てしまおう。

そう思った私はユースホステルに戻るとケーキを頬張り、さっさと寝支度をしてベッドに横になる。

フト思った。

(あそこまで何をしに行ったんだろう)

西の果ての思い出はロカ岬よりも、沢山食べた印象の方が強く、実際あれ程の満腹感を味わったのは後にも先にもあの時だけである。
加えてその日の夜のひもじさもセットで記憶に焼き付いている。

そして今「最西端到達証明書」はどこにあるのか行くへ知れず。

トホホなんである。