夏の特大号はすぐに出るのである。


今でこそソウルの街はアルファベット表記のみならず、日本語も中国語も増え一見して何のお店なのかはすぐに分かるようになっているが、私が初めて訪れた当時は99%ハングルで表記されており、(あくまでも私のイメージ・印象である)全く意味が分からず困惑したものだ。
(偶に「日式」の文字を掲げるお店があると、日本料理屋だなとは分かったが)

正に、言語理解能力がゼロの状態になってしまったのである。

例えばインドやエジプトやタイに行っても表記されたものを読むことはできず、同じように言語理解能力ゼロと相成るワケだが、視野に入ってくるもの全てと、香りなどがあまりに日本とは違う為に「そりゃ分からないよ、外国にいるんだから」と何ら不思議でもなく、当然だと思うだろう。
ハナから諦めがつくというか。

又、西欧社会に行けば、仮にその地の言語が理解できなくても殆どがアルファベット表記なので読めば何となくは分かるものだ。

ところが韓国は視野に入ってくる景色や行き交う人々は見慣れたものなのに、いざ対面しようとすると、無機質な模様にしか見えない、もっと言えばとても文字には見えないハングルの洪水が襲ってくるのだ。
ハングル酔いとは良く聞く言葉だがその時の私は正にそんな状態であった。

空腹を覚え、食事をしたいのだが食堂が分からない。
肉屋や八百屋などはガラスケースや開放的な空間の下に商品が並んでいるのですぐに分かるが、旅行者にとって今必要なのは食材ではなく、食事なのだ。

生肉や玉ネギ買ってどうする。

曇りガラスに赤や青のマジックやテープでハングルが書いてある、店らしき扉を思い切って開けてみるが、不動産屋や何かを扱う会社であることも多かった。

「あ、スミマセン。。」

地理的に日本に最も近いところへ帰ってきた筈なのに、(ヨーロッパからの帰国途中に立ち寄った)日本から一番遠いところへ放り出されたような疎外感に襲われる。

他の文化圏の人が、日本語表記や習慣を異文化と感じるように、日本人も他所の国・地域に異文化や異質感を抱くのは簡単である。
見えているもの、聞こえてくる音が違うのだから。
ところが

「視野に入ってくるものはとても親近感のあるものなのに、同じ視野に全く違う距離感のあるものも同時にある。」

この発見は私にとってかなりの衝撃であった。

日本人にとって、意外にもここが最後の"秘境"であり、最も謎めき、不思議で、だから興味深い場所なのではないかとさえ感じたのである。(註1)

正直に言うと、入国するまで韓国はそれほど関心のある国ではなく、ノービザステイの特典(?)があればこその渡韓だったのだが、出迎えのあまりのバラエティに富んだ強烈さに、俄然興味が湧き上がり、「ハングルを読めるようになりたい!このヒトタチと話がしてみたい!」と強く思った。

帰国後すぐにテレビのハングル講座なるものを見始めたのだが、そのプログラムは「先週までのことは理解しましたよね?じゃあ次は・・」のような早いペースについていけず見事脱落。

そこでラジオ講座に切り替えた。
こちらは月曜〜木曜まで初級コースを丁寧に解説してくれて、(金曜は応用編という上級者の為のコース)とても分かりやすかったのである。

1クール、半年ぐらいの独学ではあるが、旅をするのに困らないぐらいは話せるようになったので、それでひとまずは良しとした。

そこからは特に勉強を続けた訳ではないので、会話に於ける上達度の線はずっと平行線のままである。(しかも低値安定)

それでも、私がネイティブの人と会話をしているのを聞いた友人は「ペラペラじゃん!」と驚く。
実はペラペラどころか"ペ"すら行ったか行かないかぐらいの実力なのは私が一番良く分っている。

とまれ、韓国との出会いは催涙ガスの刺激臭やハングルの分からなさから始まったのであり、それらは若き日の私にとってココロが弾む事々だったのである。


註1: 「日本人」とあるが、「日本の文化に慣れ親しんだ者」程度の意味である。
日本の国籍を持つ人、一般的に「日本人」と呼ばれる全ての人を一絡げにしている訳では無い。