※差別用語が記述されているが、歌の歌詞であり、そのことについての記事である。

美輪明宏という歌手がいる。

彼の歌う「ヨイトマケの唄」を初めて聴いた時、子供心に凄いものを見てしまったという気持ちが身体の奥底から湧き上がってきた。

子供にも理解できる簡単な言葉で歌われる、こちらの心に容易く届くその歌詞。
時は戦後復興の只中にあり、高度経済成長の大元を厳しい現場環境の中、下支えしていた肉体労働者達への讃歌であると思う。


「ヨイトマケ」とは地面を固める為に、木で四角柱のようにヤグラを組み、綱に繋がれた大きな重りをヤグラの上方から吊り、それを地面に叩きつける為、綱を引いては放すを繰り返す労働のことであり、時には肉体労働者そのものを指し、「土方」(ドカタ)と同じ意味の差別用語である。

それが歌詞に出てくるという理由で(明言されているわけではないが、それが通説である)放送禁止歌に指定されたという。

確かに、元々一般名詞である言葉が人を蔑む為に使われた時は使い方が間違っているのであり、それを指摘すれば良いのだが、差別用語として出来た言葉は使うべき、いや使われるべきではないと考える。

差別は最も賤しく恥ずべき感覚であり、そこからは何物も生み出さないと私個人としては思うので、普段はとてもそのことに敏感である。

しかしながら、そんな概念のない、又は薄い時代に庶民のありふれた生活の中で交わされていた言葉、それらを使って作られた歌や文学は、その当時の空気感をも含む場合もあると思うのだ。

昔の文学作品を読んでいると「ええっ?、、、」と思う言葉が頻繁に出てはくるが、それが当時の世相を切り取ったものであると理解している。

ただ、それらの言葉で被差別側の人間が、未だにその言葉は聞きたくないと思うのも理解できる。
その為、言葉の言い換えによる表現で歌われたり、出版されているものもあり、これはデリケートな問題故、難しい部分だろう。

個人的に、差別用語は蓋をするのではなく、寧ろこの言葉はこういう理由で人を蔑む為に使われるようになった用語である、というように知らしめていくのも大事だと感じている。


ヨイトマケの唄が持つ力強さは年代を問わず、聴いた者の心に残り、また自分を省みることのきっかけになる素晴らしい歌であると思う。


ここに全歌詞を載せる。

『ヨイトマケの唄』

"父ちゃんのためなら エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに エンヤコラ"

今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の ひるやすみ
たばこをふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が

子供の頃に 小学校で
ヨイトマケの子供 きたない子供と
いじめぬかれて はやされて
くやし涙に くれながら
泣いて帰った 道すがら
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

姉さんかむりで 泥にまみれて
日に灼けながら 汗を流して
男にまじって 綱を引き
天にむかって 声をあげて
力の限りに うたってた
母ちゃんの働く とこを見た
母ちゃんの働く とこを見た

慰めてもらおう 抱いてもらおうと
息をはずませ 帰ってきたが
母ちゃんの姿 見たときに
泣いた涙も 忘れはて
帰って行ったよ 学校へ
勉強するよと 云いながら
勉強するよと 云いながら

あれから何年 たった事だろ
高校も出たし 大学も出た
今じゃ機械の 世の中で
おまけに僕は エンジニア
苦労苦労で 死んでった
母ちゃん見てくれ この姿
母ちゃん見てくれ この姿

何度か僕も グレかけたけど
やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな 唄よりも
どんなきれいな 声よりも
僕をはげまし 慰めた
母ちゃんの唄こそ 世界一
母ちゃんの唄こそ 世界一

今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
"父ちゃんのためなら エンヤコラ
子供のためなら エンヤコラ"

https://youtu.be/sMxfM230jt4