時間の単位や、その基準は世界中どこでも同じであり、全ての人に等しく提示されている。

ブラジルの1時間はネパールの53分40秒であり、イエメンの1時間18分にあたるなんてことがあったら色々と大変だろう。

しかし個人の感覚の中にある時間は、これはもう全く違うと言っても過言ではない。

楽しい1時間と苦痛の1時間の感じ方は明らかに違うだろう。
勿論、他人が傍から(はたから)見ているぶんには何も変わらずどちらも1時間だが、本人の感覚ではそれはもうセーラー服と機関銃ぐらい違うんである。

また、これから向かう1年と、過ぎ去った1年は同じ時間には感じにくい。

例えばこれから1年間、子供の学校の役員を仰せつかったような時、始まる前は「やだなぁ、これからの1年」と思うが、その時に1年前の今日を思い出してみれば過去1年がなんと早く過ぎ去ったのだろうと感じるはずである。
きっと1年後、同じ感想を持つに違いないのだ。

歳をとっていくと年毎に1年が短く感じられるようになっていくのは誰もが同じだろう。

それはそうである。
何故なら10歳の人の1年は人生の1/10だが、50歳の人の1年は1/50なのだから。

子供は1年経てば身体も成長し、よって物理的な視点も高くなり、目に見える世界が変わっていく。

そして社会的に通用する肩書き(?)というか小学校3年から4年、4年から5年とその段階を意識することができ、(名札の色だって変わっちゃうんである)それが今まで生きてきた人生の1割前後の時間の間に変化していくのだ。

これは大きな変化であるし、1年の時間の分量、または重み・濃さを実感することだろう。

一方、50歳の人は肩書きや地位が変わるのに何年もかかり、その上やっていることは1年前と変わらない。
昨日と変わらない。
きっと明日も変わらない。
下手すれば10年以上変わらない。
(変わるものといえば体型と通院歴ぐらいなものである)

人生の1/50と考えるとほんの少しの時間であるし、その前と後ろで同じことをやっていれば、1年を短く感じて当然なのだ。

私など重さもなく、軽っ軽の1年なので、それは早く感じるのもむべなるかな。

時が経つというのは一定時間内の濃度が薄まっていくことであり、年齢と共に1年が早く感じるのはその為だろう。

その過程で今尚、濃いめの時間を過ごしている人がいつまでも若々しく見えるのではないかと思う。


しかし、濃ければいいというものでもない。
いつ攻撃を受けるやもしれぬ状況に身を置くというような濃密過ぎる時間は要らないだろう。
誰にとっても。