幸せになりたい。

人は皆そう思うだろう。
不幸になりたいと思う人はまずいないだろうし、いたとしても 不幸になることを望むのだから、そうなればそれが幸せと言えるかも知れない。

しかし良く考えてみると、幸せになりたいと思うということは今、幸せではないと思っていることに他ならない。

ある状況を不幸だと感じる人がいる。
同じ状況を幸せだと感じる人がいる。

ある日の食卓に並べられた食べ物を前に「これだけしかない」と思う人。
「こんなに食べられる」と思う人。

自分のパートナーに「なんでこうなんだろう」と感じる人。
一緒にいるだけで幸せと感じる人。
(艱難辛苦を乗り越えて結ばれた2人はそう思うことも多いだろう。しかしそれとて時が経てば「なんでこうなんだろう」と感じてしまうのはままあることなんである。)

もっと豪華な,沢山の食べ物を毎回食べたいと望むのも、パートナーにこうあって欲しいと望むのも、集団の中で自分をもっと評価されたいと思うのも自由である。

しかし、もしそうならないことを不幸せだと思っているのなら、自身がそれを作り出していることにならないだろうか。
その原因の幾つかは自分にもあることにならないだろうか。

何故なら、同じ環境を幸せと思う人がいるのだから。

欲を持つのはいいことだが、幸せには様々な形があり大きさがあると思う。
どんなに小さくとも、幸せに感じられることを沢山見つけられれば結果として、大きな幸せを手にすることができるのではないか。

幸せとは探すものではなく、感じるものであり、気付くものなんだと思う。
また、過去を振り返って「あの頃は幸せだったんだな」と想うのもまた幸せなことである。

しかしながら。
世界には「そんなことを言えるのは余裕があるからだ。少なくとも生存を脅かされている訳ではない者の言葉だ」という人々もいるだろう。
そんな人達は世界に沢山いるのではないか。

想像を絶する環境下に置かれ、例えば命の存続さえ危うい悲惨な状況から逃げ出すことも出来ない立場にいる人に向かって「不幸だと思うのは本人のせいだ」と言えるほど私自身、無神経ではないつもりだ。

前述したように幸せの感じ方は本人に依るところが大きいとは思うが、それは条件付きの話だと書いていて気がつく。

尤もらしいことを言っても例外のあるものはちっとも「尤も」なことではないのだろう。
ある事柄を「こうである」と述べるには万人に、全ての状況に、例外なく当てはまるものでなくてはならないと思う。
(特に真理を見つけたというような大袈裟な話ではないが)

明日、そして今日の生存を脅かされているわけではない私は幸せであるとも言えるが、そんな特殊な状況と比較することは本来あってはならないと思う。

そして不幸せは自身が作ってしまうものもあれば、他者の力によって作られるものもあることを改めて思う。

書いていくことによって気付く、話すことによって理解が深まるという事もある。

だからやめられない。
書くことも話すことも。