ブログとは名ばかりの垂れ流し記事を始めて3ヶ月が過ぎた。

記録として残そうと思ったのには訳があるが、それはともかく。
元々他人様に読んで戴くと云うより、自分の為に(またはある『特定の』人達の為に)書き留めておこうと思っての徒然だけれど、全く面識のない方から「いいね」を戴くのは嬉しいものである。

私の場合、「いいね」はホンの数える程ではあるが、自身が記す くだらない話や、とてもくだらないこと、又はホントにくだらない事々を綴ったものに対して、「いい」と言ってくれる人がいるというのはなんと素晴らしく、「有り難い」ことなんだろうと心の底から思う。

そして、こういったことに慣れたくはないとも思う。
それを当たり前と思いたくない。
常に感激していたい。
そうでなければ、その慣れの果てには本来弾むべき感情が横たわり、澱んでしまっていることだろう。

ある男が砂金を探しに砂漠へ行った。
掬った砂に砂金の無いことを確認しては放り投げる。
くる日もくる日も。
当然砂金など簡単に見つかるわけがない。
掬っては捨てるを繰り返していると、ある時 手にした中に本物の砂金が含まれていたとしても「いつもと同じように」捨ててしまうという。

慣れというものは恐ろしい。

吐き出したことに共感してくれる、謂わば同志がいたという発見と、嬉しさ。
たったひとりであったとしても、である。
「いいね」という単にポチッとするだけの行為かも知れないがそれは私にとって紛れもなく砂金であり、キラキラ輝く星である。🌟
そしてそれを見ず知らずの方から戴くというのもまたいいのである。

普段は意識してカジュアルな「です・ます調」にならぬよう書いているし、遠くへ届けとも思ってはいませんが今だけそれを解除して、これを読み、加えて「いいね」を戴いている方達に届けたい言葉があります。
ありがとうございます。
感謝しかありません。


たかが「いいね」に大袈裟過ぎるとは思うのだけれど。
(再びの「である調」)