「ブラック企業」
「ブラックリスト」
「あいつはクロ」
「腹黒い」
「黒星」

黒・ブラックという色をネガティブな意味を表す象徴として無意識のうちに使っているのは如何なものかと思う。


凡ゆることに聖域を作ったり、或いは敏感でデリケートな問題と捉え、あれもダメこれもダメと、言葉狩りのような方向性は好きではない。

好きではないが、その言葉、その使い方によって心のどこかに引っ掛かりを感じている人はいるだろう。

そうであるならやはりその言葉の使い方に関して、一度は考えてみたい。

例えば黒人達はそのことをどう感じ、どう考えているのだろう。

殆どの場合、言う方は別に黒い色や黒人を忌み嫌ったり,ヘイトのつもりで言っている訳ではないだろう。

「黒い肌を蔑むことは意味もなく、くだらないことだし、差別は恥ずべきことだ。けれど昔からの言い習わしだから使っているだけ」と考える向きもあるだろう。

それはよく分かる。


しかし上記のような言い回しが未だにあることは、黒の対極にあるのは白であるとして
白: 正、善、優れる、価値あるもの
黒: 邪、悪、劣る、価値ないもの

白>>>>>黒


というものの捉え方が深く感覚に潜み、染み込んでしまっているのではないか。
肌の白いことが価値とされ、同じ民族・人種でも(例えば黒人間であっても)白に近い方がより良いという感じ方、このカラリズムは抜き難くあるだろう。

当然ながら「黒だけが美しい」「黒こそ素晴らしい」ということにもならない。

モノクロ写真は黒から白、白から黒への無段階のトーンの階調で表現されている。
黒だけじゃ写真にならないし、当然白だけでも象は結ばない。

黒でなければ白 、AでなければB、右でなければ左、という決めつけは多いが、モノクロ写真のように、ものごとの価値も無段階にあることを改めて思う。

そして世界はモノクロではない。
総天然色のグラデーションの中にある。