その後、いく度となく経験した事であるが、私がデモンストレーションを行い、講習会を催すに際して、いけ花の材料として、公園のものを自由に選んで剪ることを許して貰った。日本でも公園の樹木は手折るべからずとされている。しかし、それはただべからずとの規則であって、花見時の落花狼藉はわれわれの公徳心のきわめて薄弱であるのを示している。アメリカでは、公共のものを尊敬する精神は倫理化し習性となっている。それは自分のためでり、人のためであり、全アメリカの自由のためにあるからである。アメリカの民衆の欣びのため植物を一枚も傷(つ)けずに、培い守る公園の管理者は、アメリカの民衆の欣びのため心よく私に花を剪ることを許してくれたのである。法律や規則がただ人を拘束するだけで、何故に法律があり誰のために規則があるのか判らないわが官僚的な社会生活と比べて、民主主義とはかくも明朗なものであるものかなと思った。明朗といえば、アメリカ人の親切さは立派なものである。行きずりに道を訊ねると仕事をしている人が、わざわざ手を休め、街頭まで送って来て納得の行くまで教えるのである。ある時私の乗った車が、途中で他の車の人から道を訊かれた事があったが、運転する人は早速に降りていって何か話していたが、引返して来て自分の席から地図を持ち出して二十分あまりも教えていた事もあった。街を歩いていてお互いに袖がブッ(ツ)かり合っても、明るく交わされる挨拶は、やはり人間がお互ひ(い)を尊敬し合わない習慣からは生れて来ないと思う。自分に誇りを感じ、他人を尊重し、働(ら)くことを悦び、生活を楽しむ、しかも生活そのものを支える物質が豊かであるアメリカ人。こうした人が花を愛しない事があろうか! 彼等は花を栽培し、部屋に飾り、贈物にもする。そしてただ花だから愛するのではなく、自分の趣味に於て花を選ぶ。

 アメリカの各地にガーデンクラブという社交団体が数限りなくある。ガーデンは文字通り個人の住居の庭で、各々の庭を愛し、いろいろと各自の趣味性でもって手入しては生活を楽しむところの同好会である。こう言えば甚だ浮世離れした結構な人々の道楽会のように聞えるが、日本流の郊外住宅者の盆栽いじりや、成金の似非茶人臭の庭いじりとは、まことに面目を異にしている。

 都会の中心は商店でありオフイスで高層建築が櫛比しているが、郊外にこの人々の住宅がならんでいるのは日本と同様であるが、住宅そのものが頗る開放的で個性的である。建物の周囲は芝生で、庭木が三角や丸型に綺麗に刈込まれて布置よろしきところに植えられてある。そして建物や庭木や芝生との構成や色彩の調和でもって、適当とされる位置に花が植えられている。大輪のダリヤの如きベコニヤや真赤なアジサイや、また茶花のような小さな草花が、住む人の好みで咲かされている。建物一つでも、屋根の色、壁の色、窓掛けの色のそれぞれが配色を考慮されて選ばれている。しかも住宅には塀がない。いたって低い植込みの垣がせいぜいである。Aは自分の庭を楽しむと同時に、隣の庭も鑑賞する事ができる。道行く人もこの美しい絵の様な景観を眺めつつ歩を運ぶ。車を駆る人は窓外のパノラマを気儘にエンジョイする事ができるのである。個人の趣味は、また他人への奉仕でもある。ここにもアメリカ的民主主義がうかがえる。富裕な人々の大邸宅は、建物は決して豪壮でなく、ただ庭が広闊でいろいろと工夫を凝(ら)してあるから、奉仕的役割も従って大である訳だ。こうした住居をもつ人が集って相互の趣味性を昂めたり、園芸の知識を交換するのが、即ちガーデン・クラブである。しかもこの会員は婦人が多い。家を飾り、庭を手入れする婦人の務(め)になっているからである。

『いけばな芸術』第26号(昭和27年1月1日発行)より

注:
1)漢字は新字体に改めました。
2)大文字になっていた促音の「つ」は、小文字の「っ」に改めました。
3)送り仮名は、原文を尊重したため、現代語とは違っているものがあります。
4)段落の切れ目には1行空白を入れました。