(父の話のつづきを書こうと思っていましたが
父や妹の話は精神的にヘビーなので、一番書きやすい母の話に脱線します)
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私は母に
抱きしめられた記憶がないと前に書いたが
平手打ちをくらったことはある。
といってもDVではない。記憶では二度だけである。
二度目は私も悪い。
でも一度目は今でも納得できずにいる。
私が母にはじめてぶたれたとき。
それは、私が小学校の友人と筆箱を交換したときだった。
母は私の筆箱を見つけるやいなや
「それどうしたの!!!!」とすごい剣幕で私に迫った。
友だちの筆箱と交換したんだ、というと
母は鬼のような形相になって、いきなり私の横っ面を張り倒した。
私はびっくりした。訳がわからなかった。
私が絶句していると、母はオーオーと大泣きしながら
「あしたその子に返してらっしゃい!!
そんなに欲しかったのなら、今度の日曜に買ってあげるから!!」
と言った。
どうして?と聞いても
「恥ずかしいったら、ありゃあしない!!」と言うばかり。
昨日交換したばかりなのに、そんなことできないよ、と訴えても
「いい加減にしなさい!」と忌々しそうに筆箱をにらんで、取り合ってくれない。
私は泣かない。
泣かないけど、悔しかった。納得できなかった。
怒られたからではない。
大切な筆箱だったからだ。
できたばかりの大切な友人がくれた大切な品だったからだ。
相手はS田さんという、ちょっと伊藤沙莉に似た感じの子だった。
彼女とクラスが一緒だったのは3、4年の頃なので
そのどちらか、9才か10才の頃の話である。
今考えると母もよくもあんな小さな私を殴ったものだ。
S田さんは鍵っ子だった。 80年代はじめ。
S田さんの家はその頃はまだ珍しい共稼ぎの家だった。
詳しい職業は憶えていないが、家は自営業だったような気がする。
私は彼女をS田さんと呼び、彼女は私をK田さんと呼んだ。
つまり、そんなに仲良しだったわけではない。
でも、あるときからなぜか急接近した。
たぶん何かの授業のグループ分けで一緒になったのがきっかけだと思う。
ちょっとガラッパチな印象のあった子で、それまであまり話したことはなかった。
その頃の私はとても受け身で
自分から遊ぼうと言ったりできない性格だった。
グループに入るのも、一緒に帰るのも、遊びの約束をするのも
すべて、相手が言ってくれるのを待っていた。
S田さんは積極的だった。
まだほとんどしゃべったこともなかったのに
いきなり「今日、うちにおいでよ!」と誘ってくれた。
え?二人で?と、消極的な私は一瞬腰がひけたが
嫌ともいえず、ちょっとドキドキしながら遊びにいった。
誰もいないS田さんの家はひんやりしていた。
食卓にはお金とお菓子が置いてあり、
冷蔵庫にはジュースやジョアやサイダーのような炭酸飲料があった。
たくさんのお菓子とジュースを
大人のいな居間でテレビを見ながらたべるのは
密やかな雰囲気があって、自由で、とても楽しかった。
そして、静かさがちょっぴりさみしかった。
私は自分とはまったく境遇の違う彼女にシンパシーのようなものを感じた。
S田さんと友達になれてよかった、大事にしたい、と思った。
S田さんもまた、同じように思ってくれたのだろう。
それからも何度か彼女のおうちにお邪魔した。
となりの区との境になっている小さな川のそばの
こじんまりとしたきれいな二階建てのおうち。
いつも家には誰もいなかった。
彼女と遊ぶようになってしばらくした頃
休み時間に、彼女が持っていたまだ新しい筆箱を
さわらせてもらった。
当時流行していた、10面くらいある大きな筆箱。
呼び名を忘れてしまったけど、デラックス筆箱とか言ったかな?
そのころでも確か千円以上したと思う。
上も下も中も開くゴージャスなつくりに子供達はあこがれた。
少し前に彼女が新しいそれを学校に持ってきたとき
いいなあ!と思ったが口にしなかった。
彼女は洋服もサンリオ、バッグや靴もサンリオで
いつも全身とっても”お金持ち”だったから。
デラックス筆箱も当たり前のように見えて
わざわざ「それどうしたのー?」と聞くのも変だったから。
・・それとも、子供なりにプライドがあったのかな。
でも、ある日、とうとう我慢できなくて
彼女の筆箱をさして「中、どうなってるか見せてー」
とお願いしてみた。
パカパカと開けたり閉めたりする動きが華麗で
でも構造がよくわからなくて、
本当は見たくてずっとウズウズしていたのだ。
以前の私だったら、そんなことお願いできなかったけど
何度か彼女の家に行くうちに、
私もフランクに話せるようになっていた。
その筆箱は、すごかった。
上にも下にも扉がある両面冷蔵庫のようなつくりで
その真ん中も開く。小さな扉もいくつもある。
鉛筆、消しゴム、鉛筆キャップ、鉛筆削り、時間割・・・。
さながら文房具のワンダーランドだ。
男子で既に持っていた子はいたが
女子では彼女が最初だったと思う。
私がさわらせてもらっていると、女子が集まってきた。
みんなでキャーキャー言っていると
S田さんはとてもうれしそうだった。
その日の帰り。
「さっきの筆箱あげるよ!」とS田さんが声をかけてきた。
あげる??? 私はびっくりしたのと、
物欲しそうに見えたのかなという恥ずかしさで、
「えー!いいよ。いいよ」というのが精一杯だった。
S田さんは、あわてたように
(そんなつもりじゃないよ!)という顔で
「あのね、K田さん(私の苗字)の筆箱と交換したいの。だめ?」
と言葉を言い換えた。
女の子っていうのは
あんな10才になるかならないかのときから、女なのだ。
彼女は一瞬で私の気持ちを読んで、優しい嘘をついたのだ。
その当時、私が使っていたのは
近所の文房具屋さんで買った、何の変哲もない
ブリキ製のカンペンケースだった。
絵柄も、特に好きでもないキャラクターが書かれていた。
それと交換しようと言われたのだから、
私が赤面したのはいうまでもない。
「えーダメだよ。ダメだよ」と何度か言うと
(私も、そんなつもりで見せてもらったんじゃないと必死だった)
S田さんが少し悲しそうな顔をした。
私はひるんだ。
「だって、私のってこんな(安物で可愛くないやつ)だよ」と示す私に
「可愛いじゃん。私それがいいな」とS田さん。
子供の私はもうわかっていた。
これは友情の証なのだ。
S田さんは、私と友情の証が欲しいのだ。
「わかった。じゃあ交換しよう。ほんとにいいの?
また使いたくなったら返すから言ってね」
と私は言い訳のようなことを言って、筆箱を交換した。
こうして、さっきまで夢のようにキラキラ輝いていた筆箱は
あっけなく私の手元にわたった。
自分の机の上に置いた瞬間、居心地の悪さを感じた。
私は万引きをしたことはないが、
きっと万引きをする人はその戦利品を手にするとき
あんな気分じゃないのかと、今でもそのときの感情が胸にある。
翌日の授業のとき、後ろのS田さんを見ると
ニコっと笑って、私の筆箱を挙げてみせた。
「使ってるよー」という仕草で。
私はその笑顔を見て、これでよかったんだと思った。
どきどきするような分不相応なゴージャス筆箱を手に
それでもやはり子供だから、うれしい気持ちが勝ってきた。
でも、そんな時間も1日限りだった。
交換した当日は、なんとなく悪いことをしたような気になって
母の目につかないようにランドセルにしまっていたが
翌日は自分の気持ちに耐えかねていた。
(別にどうってことでもないよね、と確かめたいような気持で)
食卓で宿題をひろげ、母の目につくように脇に彼女の筆箱を置いた。
あのときの私は、母に筆箱交換のことを
「そう、よかったわね」と言って欲しかったのだと思う。
でも、現実は甘くなかった。
冒頭に書いたように、私の想像をはるかに超えて
母は激高し、私は逃げるヒマもなくひっぱたかれた。
金切り声と共に泣きわめき、返してこいの一点張りだった。
まるで辱めをうけたかのように母は悔しがった。
私はそれから、子供なりに一生懸命考えた。
どうしていけないんだろう、と。
S田さんに何て言って返せばいいのだろう、と。
あくる日、私は精一杯の笑顔を添えて
S田さんに「やっぱり筆箱を元に戻そう」と言った。
「え?なんで?」と最初笑っていた彼女も
私が母に怒られて返してこいと言われたことを聞くと
「わかった」と納得してくれた。 またあの寂しそうな顔をした。
私は「ごめんね」としか言えなかった。
友人の喜ぶ顔がみたくてあげたものを
突き返されて、それを再び自分で使わなければならない
彼女の気持ちはどんなだったろうと思う。
母は、自分で言ったとおり、その数日後に
私を駅前のちょっと高い文具店に連れていった。
筆箱ならもういいよ、いらないよ、
自分のあるからいいよ、と言っても聞かなかった。
母は意地になっていた。
私に交換したのはどれ?と尋ね、怒った顔のまま
「どれ?」「それ?」「ふん」とだけ言って、軽々と
S田さんと全く同じ筆箱を買って、私に与えた。
まるで、”うちだって買えるのよ”とでも言わんばかりに。
私は、その筆箱を学校に持っていくことはできなかった。
なぜ母は、私が新品の、同じものを持っていけると思うのだろうか。
S田さんが嬉しそうに私に「交換ね♪」と言って渡してくれた
ほんの少し使ったあとのあるあの筆箱のあたたかさ。
全く同じなのに、母が買ってくれたものはちっとも嬉しくなかった。
私は古い筆箱を使い続け、
母は「せっかく高いの買ってやったのに何で使わないのよ!」と怒り、
S田さんもまた、私が返した筆箱を使わなくなった。
少女二人は、このことを境に、少しぎこちなくなり
S田さんのあのひんやりとした、お菓子でいっぱいのおうちへも
まもなく行かなくなってしまった。
ケンカ別れではない。
そのあとも時々一緒に帰ったし、学校でもしゃべった。
けれど、それから私たちは、一度も
あの一時期のような親密な時間を二人で共有することはなくなった。
繊細でもろい、言葉にできないシンパシーと信頼の証を
私の母の大人の論理で、力づくで踏みにじられ、
幼い二人の少女に残ったのは、互いへの罪悪感と気まずさだった。
私は今でも、彼女のことを想うことがある。
本質的には何も変わらない母が、私の母としてこの世に存在する限り
私はきっと、あの元気で繊細な少女のことを忘れることはできないと思う。
そして、彼女にとってはあのことが大した出来事ではなく
今はすっかり記憶のかなたに消えていてくれたらいいなと、心から想う。
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ちなみに母に二度目に叩かれたのは、小学校高学年のとき。
当時は、父のことをはじめ誰にも言えない秘密を抱えていたこともあって
自分の複雑な内心と、母のひらひらとした楽しそうな様子に頭にきて
「クソババア!」 と初めて言ってみた。
母の顔をじーっと見ながら言い、母はその頬をビッシャーン!と打った。
テレビでは不良物が流行っていた頃だった。
一度使ってみたかった言葉だった。
こんな感じかな、と、少し大きめの声で「クソババア!」と言う私。
同じように、こんな感じかな、と「いい加減にしなさーい!」と叩く母。
思わず、心で笑ってしまった。
安っぽい劇のようだった。
私も幼かったが、母も幼稚だったのだ。
そしてそれを俯瞰で見て小ばかにしている私は、
さぞかし大人からすれば憎らしかったろう。
ただ、クソババアと言っても、ちっともすっきりしなかったし
なぜ娘がそんなことを急に言うのかと考えあぐねるほどの
思慮深さや関心は、私の母にはなかったので
私はそれきり、バカらしい不良言葉は使うことはなかった。
頬はちっとも痛くなかった。
だって、その頃の毎日はもっと痛くてつらいことに満ちていたから。
でも、それで収束したと思った母は
びんたが ”効いた” と思ったに違いない。
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母に叩かれた思い出。
いずれも小学生のときの、たった二度のことだ。
でも、どちらも愛情からきた張り手ではなかったことだけは
この頬と心が、ずっと覚えてる。
その後、母が私をたたくことはなかった。
そしてもちろん、その前もあとも、私を抱きしめることもなかった。
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