テレビドラマは全然見ないので、そのストーリーや原作がどのようなのかも知らなかったのですが、

芦原妃名子さんの自死のニュースを読んで、原作者の位置、見かたなど考えてしまいました。

 

私の脳内にストックされているものが、どうしても宝塚の作品中心になってしまうのですが、宝塚も全くのオリジナルの作品もあれば、原作のあるものや、よく知られた物語が取り上げられることもありますね。むしろ最近は全くのオリジナルの方が珍しいような気もしますが、そんなときに過去の演出家の先生方はどのように対峙してこられたのだろうと疑問がわいてきました。

 

自分が思いついたところで

ベルばら

漫画でも池田理代子先生の大ヒット作で、この時は漫画のファンの人たちがイメージを損なうと大反対だったとか、というのを植田先生もよく語られていましたよね。私自身、原作の漫画も読み、宝塚の舞台も見て割とイメージは外れてなかったですし(限定:昭和、平成の最初まで)ところが実写の映画やアニメはどうも違和感があったように思えます。アンドレの最期なんか映画だと「へ?」みたいな感じで涙もなにもなくラストももー全然ドクロこの池田理代子先生の世界観を見事に舞台に乗せたのは植田紳爾先生の功績ではありました。だからこそ、その後の再演も可能になったんでしょうね。

 

ポーの一族

小池先生がOKをもらうのに10年かかったとプログラムでも書かれていましたが、そりゃこの世界って簡単に体現は難しいと思うんです。多分みりおちゃんありきで上演できたんじゃないかと。エドガーの人ならざる透明感や神秘的な雰囲気だけでなく残酷さや血の気のなさをあそこまで美しく見せることができる人だったからこその受け容れだと思います。ここまでエドガーができる人がいなければ再演は難しいような気がします。

 

はいからさんが通る

大和和記先生の作品ってそれまでも何度か舞台に上がっていますが、とりかえばや異聞→紫子とか あさきゆめみしとか。繰り返し上演されているというのは、たぶん劇団と原作者の信頼関係なんでしょうし、原作者の納得できる舞台だったればこそ、なんでしょうね。

 

いずれもそれを考えると、宝塚の演出の先生ってそれだけの手腕は持っている(いた?)んだなぁとそれはリスペクトできる部分ではあります。

海外ミュージカルでも、厳しい版権の縛りをかいくぐって繰り返し上演できているのは、それもあってのことですよねきっと。

風と共に去りぬ、エリザやミー&マイ ファントム、などなど

それだけでなく、日本の作家さんでも藤沢周平氏、山本周五郎氏はじめ上演を許可していただいた先生がたは多く、これは110年の歴史の中で誇っていいこと。ただ現実には1作品だけで終わってしまった人気作家さんもいたりして、そんなのってやっぱり原作と随分カラーが違っていたと今になって思います。当然全部が全部でないですが。

 

ディズニーがグリム童話やアンデルセン童話を度々アニメ化していますが、時々結末やら登場人物があまりに異なることがあってびっくりすることがあります。著作権がもうなくなっているとこんなにも変えるものなのかと。

ラプンッツェルを救い出すのが王子様でなく盗賊だったり、人魚姫がハッピーエンドになったり、千夜一夜物語とアラジンの話がいっしょくたになったり、ディズニーという巨大なブランドの中では元のお話すらディズニー仕様に変えられてしまうのかと思ったことがありました。しかもそれをネタにまた映画を作っちゃうというしたたかさ。(見たけどタイトル忘れちゃったよ、ナントカの約束?)

 

話は戻って、原作者へのリスペクト、上演されるときに原作者の思いが汲まれているか、その辺りのコミュニケーションの問題だったのかなとも思ったのですが、もちろん限られた空間で限られた人しか見れない劇場と、不特定多数の人が自由に視聴できるテレビとでは、伝わるものも異なってきますし、そこらへんは、自分の想像の域も超えているのかと思いますが、原作者が作り上げたストーリーの中にある、受け手に発したいメッセージや思いが確実に乗っていることはどんな媒体でも必ず、ではないでしょうか。そこを踏みにじられるようなことになると、その方自身の否定にもつながる、そこから今回の事態になったのではないかと想像しています。

 

テレビドラマでの今回のような悲劇で、申し訳ないんですが、数々の原作を舞台に乗せてこられた宝塚の演出家の先生方は、やっぱりすごいんだなと、少し思いました。(それとこれとは別、なことも承知の上で)