私は多様性とか気にしない人間だと思う。いろんな人がいていいと思うし、だからこそ世界は面白いと思う。だからどんな人を見ても否定も肯定もしない。そんな人たちがいていいと思うから。その人らしさを大切にすればいい。

でもそれって自分の目で捉えた姿しか見てないよね。人は興味を持ったり、知りたいって思うから見えない部分が見えてくる。私は見えてる部分しか見ていない。それは多様性を認めてるようで認めてないのだろう。
私がさめてるって言われるのはここなんだろうな。
ただの自己覚知。
ただの思ってること。人には見られたくないからこのブログで。

当たり前になってきちゃってる。病院で過ごすことが。患者さん、家族にとっては大きな病気で入院して戸惑いに葛藤に不安にいろんな気持ちがあると思うのに、私はただ今後のことばっかみてる。
早く出さなきゃ、この病状じゃこの選択肢しかない。
私は何をみて仕事をしているのだろう。
何をしたくてこの仕事についたんだろう。

患者さん、家族の気持ちを汲むことはできているのかな。

延命治療だってプラスだったらまるで悪いことのように扱ってるけど、生きててほしいって思うのが家族じゃんね。その気持ちは当たり前だ。マイナスの選択肢はこっちのエゴな気もする。
自宅で介護できないから家で見れない。その言葉の裏にはどんな気持ちがあるんだろうね。

無難に無難にケースをこなしてるだけ。家族の思いに目を向けないと簡単だよ、ただ転院させればいい。なんのために私は面談しているの?

こんな私に感謝してくれる家族がいる。私が何をしたんだろうって泣きたくなる。その度に私は誠実に向き合えてたのかなって思う。うまくコントロールしただけじゃない?

私のなりたかったソーシャルワーカーってなんだろう。理想と現実?そんなのわかってる。でも現実の中で私はソーシャルワーカーだから。その現実で何をするかなのよ。


もっともっと家族に寄り添いたい。それが私の気持ちでしょ?気持ちに触れるのを怖がっちゃだめ。
忘れちゃだめ。いろんな職種がいて難しいのはわかってる。でも忘れちゃだめ。

私は明日もMSWだ。