大好き!!MLB2-アメーバ版
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大好き!!MLB2-アメーバ版

1934年8月18日

将来殿堂入りのロベルト・クレメンテが、
プエルト・リコ、カロリナで誕生します。
クレメンテは1955年にピッツバーグ・パイレーツで
大リーグデビューし、18年間で打率.317を残します。
彼は、飛行機事故で悲劇的にキャリアを閉ざされるまでに
12度のオールスター・チームに名を連ね、
12回のゴールドグラブ賞に輝きました。

ロベルト・クレメンテ

★プチトリビア

クレメンテの魅力は4度の首位打者に輝いた打撃ももちろん、
右翼からの強肩と広い守備範囲で61年の27回を最高に
最多捕殺5回、なんと言っても12年連続ゴールドグラブは
伊達じゃありませんでした。
亡くなった今でも、カリブ諸国では最大のスーパースターです。

◆今日の気になった出来事

レッズ生え抜きの看板打者ジョーイ・ボット一塁手が、
左肩の手術を受けて残りシーズンを全休することを明らかにした。
MLB公式サイトが報じている。

38歳のボットはレッズひと筋に過ごし、今季がメジャー16年目。
昨季は36本塁打と健在をアピールしていたが、今季は91試合の出場で
打率2割5厘、11本塁打、41打点だった。

19日に左肩の腱板を手術する予定で、リハビリには6カ月かかる見込み。
来年の春季キャンプには間に合う予定だという。

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すいません!諸事情により、11/30まで一気更新です!

1998年11月30日

アリゾナ・ダイヤモンドバックスは、
FAのランディ・ジョンソンを4年契約で獲得します。
多くの賞を獲得しているジョンソンは、ナショナルリーグで
4回のサイヤング賞に輝くなど、新しいレベルに進みます。
「ビッグユニット」は、シーズン平均を20勝、防御率2.48、
354奪三振としました。

ランディ・ジョンソン

★プチトリビア

88年にモントリオール・エクスポスでデビュー。
ただの最長身投手としか知られていなかったが、
89年途中でマリナーズへ移籍して92年に突然開花。
241奪三振、被打率.206をマークして初タイトル。
以降、サイヤング賞5回など超一流投手となった。

1976年11月29日

ニューヨーク・ヤンキースは、ボルチモア・オリオールズで
シーズンを終えた強打のレジー・ジャクソン外野手と契約します。
ジャクソンのパワフルな打撃と生意気な口は、メディアまみれの
ニューヨーク・マーケットにぴったりフィットすることになります。
1977年のワールド・シリーズ第6戦の3本塁打によりヤンキースは
15年ぶりに世界一の座につきました。

レジー・ジャクソン

★プチトリビア

77年のシリーズ第6戦の3本塁打は、すべて初球を叩いたもので
まず4回にバート・フートンから2ラン、そして5回にエリアス・ソーサから
再び2ラン、とどめが8回にチャーリー・ハフからバックスクリーンへ
特大アーチを運び、ここに「ミスター・オクトーバー」が誕生しました。

1958年11月28日

ボストン・レッドソックスは、100,000ドルの特別配当金で
10代のカール・ヤストレムスキーと契約します。
将来殿堂入りする彼は、テッド・ウイリアムスが守りつづけた
左翼のポジションで3年後にデビューします。
そして、3,419安打、452本塁打を23年間のキャリアで
記録しました。

カール・ヤストレムスキー

★プチトリビア

1967年に記録した三冠王が最後の三冠王といわれています。
通称は「ヤス」。
また、打つだけでなく守備も一流で7回のゴールドグラブ賞と
7回の最多捕殺もマークしています。

1997年11月27日

黒人リーグの伝説的人物バック・レナードが90歳で
死去しました。
「黒いルー・ゲーリック」といわれ、ホームステッド・グレイズで
すさまじい打撃と守備の上手い一塁手として活躍します。
1972年に黒人リーグだけの選手として初の殿堂入りした
レナードの実力を大リーグは認識していました。

バック・レナード

★プチトリビア

ニグロ・ナショナル・リーグで9連覇の中心選手。
48年に打率.395を最高に3回の首位打者となり
生涯打率は.328。
本塁打王2回にも輝くスーパー・スターでした。

1975年11月26日

ボストンの中堅手、フレッド・リンはMVPを獲得した
初めての新人となります。
リンは打率.331、21本塁打、105打点という成績を
あげただけでなく、外野の守りでもワクワクさせて、チームを
リーグ優勝に導きました。

フレッド・リン

★プチトリビア

73年ドラフト2位で入団。上記3つのほかに47二塁打、
103得点、長打率.566も1位で文句なしのルーキーで
初のMVP受賞者になりました。

1914年11月25日

将来殿堂入りのジョー・ディマジオがカリフォルニア州
マルティネスで誕生します。
イタリア移民の息子、ディマジオは、ニューヨーク・ヤンキースで
13年間のキャリアを過ごす前に、パシフィック・コースト・リーグの
サンフランシスコ・シールズで小さな伝説となるでしょう。

ジョー・ディマジオ

★プチトリビア

ディマジオといえば、56試合連続安打が有名ですが、
マイナー時代に61試合連続安打を記録しています。
史上最高のオールラウンドプレーヤーです。

1953年11月24日

ブルックリン・ドジャースは、あまり知られていない
ウォルター・オルストンを監督に据えます。
オルストンは、1955年にヤンキースを倒して
球団史上初の世界一に導き、ロサンジェルス移転後も
さらに3度の世界一になりました。
1976年まで監督を続け、2040勝を記録し引退。
1983年に殿堂入りを果たしました。

ウォルター・オルストン

★プチトリビア

マイナーでは4度の本塁打王になるも、大リーグでは
1試合で1打数無安打、1三振の成績のみでした。
44年にマイナーで監督となり、好成績でドジャースの
監督に抜擢されました。
1年目が2位、2年目が世界一で名将となりました。

1962年11月23日

モーリー・ウイルスは、ナショナル・リーグMVPに選ばれます。
ロサンジェルスの遊撃手は、打率.299、130得点、
1シーズン記録となる104盗塁をマークしました。
ウイリスは、リーグトップの49本塁打したウイリー・メイズを
209対202ポイントでかろうじて勝利しました。

モーリー・ウイルス

★プチトリビア

このとしは、史上最多の165試合に出場。
208安打は2位、盗塁成功率は.889でした。
ちなみにそれまでの記録は、タイ・カッブの96盗塁でした。

1954年11月22日

ピッツバーグ・パイレーツは、ブルックリン・ドジャースの
3Aロースターからロベルト・クレメンテをドラフトします。
クレメンテは、モントリオール・ロイヤルズ時代は.257しか
打てなかったが、パイレーツの先発ラインアップに入るように
なってから殿堂入りのキャリアが始まります。

ロベルト・クレメンテ

★プチトリビア

このドラフトはマイナー・リーグ・ドラフトといいます。
翌55年からすぐに正右翼手になる。「ライフルアーム」を武器に
61年の27捕殺を筆頭に最多捕殺5回、12年連続ゴールドグラブ
に輝くなど守備でも一流でした。

1920年11月21日

将来殿堂入りのスタン・ミュージアルがペンシルベニア州
ドノーラで誕生しました。
壮大な22年のキャリアで「スタン・ザ・マン(男の中の男)」は、
3630安打、475本塁打、3度のMVPを記録します。
偶然にも、傑出した選手のケン・グリフィー・ジュニアは、
ミュージアルの誕生日の49年後に誕生しました。

スタン・ミュージアル

★プチトリビア

ミュージアルは、体をくねらせバットを体に巻きつけるように
打つ独特なフォームから安打を量産しました。
首位打者7回、最多安打6回、打点王2回、得点王5回
最高出塁率6回、オールスター20回のスーパースターです。
1948年には、1シーズンで5打数5安打を4試合記録しました。

1951年11月20日

ニグロ・リーグのインディアナポリス・クラウンズは、
17歳の痩せたヘンリー・アーロンという内野手と契約します。
アラバマ州モービル出身の彼は、ミルウォーキー・ブレーブスと
契約の前に1年間だけニグロ・リーグでプレーします。
そこで23年の現役生活と殿堂入りのスタートを切りました。

ハンク・アーロン

★プチトリビア

本名はヘンリー・ルイス・アーロン。
クラウンズでは、遊撃手でスタート。
52年に7500ドルでブレーブスと契約しました。
歴代2位の通算755本塁打を記録しました。

1979年11月19日

ヒューストン・アストロズは、FAのノーラン・ライアンと契約しました。
16勝、223奪三振をカリフォルニア・エンジェルスであげたライアンは、
4年で450万ドルでサインしました。
ライアンは大リーグで初の100万ドルプレーヤーとなりました。

ノーラン・ライアン

★プチトリビア

79年のシーズンでライアンは、4年連続7回目の奪三振王に輝いた。
73年の383奪三振は、1900年以降の大リーグ最多記録。
通算5714奪三振は、当然のごとくダントツ1位の大リーグ記録です。
さらに、空前絶後の7度のノーヒッターも記録しています。

1966年11月18日

ロサンジェルス・ドジャースが、左腕エースの
サンディー・コーファックスの引退を発表し、ベースボール界を唖然とさせました。
30歳のコーファックスは、3週間前に3度目のサイヤング賞に輝きましたが、
彼の左ヒジは関節炎のための痛みがとれず、キャリアを続けるのは無理と
判断しました。

サンディー・コーファックス

★プチトリビア

コーファックスは、合計12年のキャリアで引退しましたが、
最初の6年は36勝40敗だったが、61年に18勝してから、
引退までの6年間で、MVP1回、サイヤング賞3回、
最多勝3回、最高勝率2回、最優秀防御率5回、最多奪三振4回、
ノーヒッター4度(うち、1度はパーフェクト)の成績を収めた。
最後の66年は、27勝(1位)、382奪三振(1位)、防御率1.73(1位)の
投手三冠の成績からの引退だけに、周囲を唖然とさせました。

1944年11月17日

将来、殿堂入りのジョージ・トーマス・シーバーが、
カリフォルニア州フレスノで誕生します。
すぐに「トム・テリフィック(驚異のトム)」として知られるようになり、
1967年に新人王としてビッグリーグで爆発し、1975年までに
3度のサイヤング賞に輝きました。
20年のキャリアで311勝をあげ、1992年に殿堂入りしました。

トム・シーバー

★プチトリビア

シーバーは、大学時代から完成された投手として、
66年のドラフト1位でブレーブスが指名したが、
NCAA協定違反とされ無効に。
結局、フィリーズ、インディアンス、メッツの3球団で
クジ引きになり、メッツに入団しました。

1979年11月16日

ボストン・レッドソックスは、FAのトニー・ペレスと契約しました。
1980年にベテラン一塁手は、25本塁打、105打点を記録し、
シンシナチのビッグ・レッドマシーン時代で最も大きなシーズンを
過ごしました。
ペレスは引退する1986年までフルタイムプレーヤーとして
現役を続けました。

トニー・ペレス

★プチトリビア

23年間で379本塁打、1652打点のペレスは、
38歳で25本塁打をマーク、42歳のときに当時の最年長記録となる
グランドスラムを記録しました。

◆今日の気になった出来事

米大リーグは17日、2021年のサイ・ヤング賞受賞者が発表され、
ア・リーグはトロント・ブルージェイズのロビー・レイ、
ナ・リーグはミルウォーキー・ブルワーズのコービン・バーンズが選出された。

13勝を挙げて防御率2.84を記録したレイは、全米野球記者協会による投票で
30票中29の1位票を集めて合計207点ポイントを獲得し、ほぼ満場一致で選ばれた。

16勝で最多勝のタイトルを獲得したニューヨーク・ヤンキースのゲリット・コールが
2位、シカゴ・ホワイトソックスのランス・リンが3位だった。

ナ・リーグでは、バーンズがフィラデルフィア・フィリーズのザック・ウィーラーを
わずか10ポイント差で抑えて受賞を果たした。

バーンズとウィーラーの1位票は共に12だったが、2位票をより多く獲得した
バーンズが合計151ポイントとし、同141のウィーラーを抑えた。
6の1位票を獲得したロサンゼルス・ドジャースのマックス・シャーザーは、
113ポイントで3位だった。

ブルワーズからのサイ・ヤング賞選出は、球団のナ・リーグ移籍以降では
バーンズが初めてとなった。
米カリフォルニア州出身の27歳は今季、勝利数は11で20勝したドジャースの
フリオ・ウリアスに9及ばなかったが、167回を投げてリーグトップの防御率2.43を記録した。

1967年11月15日

将来、殿堂入りのカール・ヤストレムスキーは、
アメリカン・リーグMVPを受賞しました。
ボストンの外野手は、打率.326、44本塁打、121打点で
三冠王に輝きましたが、投票で1票の1位票だけが取れませんでした。
その1票は、ミネソタのセザール・トバルに入りました。

ール・ヤストレムスキー

★プチトリビア

この1967年のヤストレムスキーの三冠王は、
現時点で最後の三冠王となっています。
通算3419安打、452本塁打、オールスター18回の
ボストンのスーパースターでした。

1973年11月14日

オークランドの強打の外野手、レジー・ジャクソンは
アメリカン・リーグMVPに輝きました。
将来、殿堂入りのジャクソンは、32本塁打、117打点、
99得点をマークし、パワーでアスレチックスを2年連続の
ワールドチャンピオンに導きました。

レジー・ジャクソン

★プチトリビア

レジーは、ワールドシリーズでも29打数9安打、1本塁打、
1三塁打、3二塁打、6打点でMVPに輝きました。

1979年11月13日

ピッツバーグのウイリー・スタージェルとセントルイスの
キース・ヘルナンデスはナ・リーグMVP投票で同数となり、
二人が選ばれます。
ヘルナンデスは打率.344でリーグ1位、スタージェルは
32本塁打とパイレーツをワールド・チャンピオンに導くために
リーダーシップをとりました。

ウイリー・スタージェル

★プチトリビア

この年の39歳でのMVPは史上最高齢で、
さらにプレーオフ、ワールドシリーズでもMVPになり、
史上初で唯一の年間3つのMVP受賞者となりました。

1920年11月12日

ブラックソックス・ギャンブルスキャンダルが起きた後に
大リーグのオーナー達は、満場一致でケネソー・マウンテン・
ランディス連邦判事を初代コミッショナーに選びました。
ランディスは、関わった選手全員を永久追放処分にして、
球界の秩序を取り戻し、オールスター・ゲームや栄誉殿堂などで
球界の人気を押し上げる事をサポートしました。

ケネソー・マウンテン・ランディス

★プチトリビア

フェデラル・リーグによる独占禁止法違反の申し立てに関わり、
20年に絶対的な権限を付与されてコミッショナーになった。
「疑わしきは罰する」姿勢で下した処分だったが、
一部には、恣意的(しいてき)で不公平だったという声もあった。
また、黒人選手の大リーグ入りを拒否し続けた、という話もある。

1981年11月11日

ロサンジェルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラは、
サイヤング賞を受賞する初めての新人投手となります。
スクリューボールの左腕は、奪三振、完封、投球回で
ナショナル・リーグトップとなり、全米野球記者協会の投票で
トム・シーバーをかろうじてかわしました。

フェルナンド・バレンズエラ

★プチトリビア

「フェルナンド・マニア」という言葉を生んだメキシコの怪童。
変則シーズンの短縮日程ながら、13勝をあげ、
8完封、11完投、180奪三振、192.1回の4部門で1位となりました。

1975年11月10日

カンザスシティ・ロイヤルズは、ベテランスラッガー、
ハーモン・キルブリューをリリースし、22年の大リーグキャリアが
終わりました。
大リーグ史上で最も恐れられたパワーヒッターの一人である彼は、
40本塁打以上を8回記録し、通算573本塁打をマークしました。
1984年に殿堂入りを果たしました。

ハーモン・キルブリュー

★プチトリビア

本塁打王に6度輝いたキルブリューは、
「ザ・キラー」と呼ばれたニックネームとは違い、
真面目で、退場は一度もありませんでした。

1998年11月9日

殿堂入りの投手、ジム「キャットフィッシュ」ハンターは、
自身がルー・ゲーリック病である事を発表します。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)として知られているこの病は、
脊髄と脳の中の神経を攻撃し、才能を奪い取ります。
ハンターは、1年後に53歳で亡くなりました。

ジム「キャットフィッシュ」ハンター

★プチトリビア

15年間で224勝166敗、アスレチックスで72から74年の
3連覇時のエース。
68年5月8日のMIN戦で完全試合を達成。
75年からはNYYで77,78年の連覇に貢献しました。

1995年11月8日

ロサンジェルスのヒデオ・ノモが、大リーグ史上初となる
日本生まれのプレーヤーがナショナル・リーグ新人王に
輝きました。
ノモは、独特のコークスクリュー・ワインドアップで
打者達を混乱させて、リーグ1位の236奪三振と2位の
防御率2.54をマークしました。

ヒデオ・ノモ

★プチトリビア

デビューの1995年5月2日、
サンスランシスコのキャンドルスティック・パーク。
朝、早起きしてTVを見た記憶があります。
「トルネード」はセンセーショナルでした。

1967年11月7日

セントルイス・カージナルスの一塁手、オーランド・セペダは、
満票でナ・リーグMVPを獲得した二人目の選手になりました。
「ベイビー・ブル」は打率.325、25本塁打、111打点をマーク、
カージナルスを優勝に導きました。
1936年に殿堂入りしたカール・ハッベルが満票でのナ・リーグMVPの
第一号でした。

オーランド・セペダ

★プチトリビア

36年のハッベルは、26勝6敗、防御率2.31で
16連勝でシーズンを終えたことがポイントだったんでしょうか。

1984年11月6日

デトロイトのウィリー・ヘルナンデスは、同じシーズンにMVPと
サイヤング賞を唯一リリーフ投手で受賞したローリー・フィンガースに
次いでダブル受賞者となりました。
ヘルナンデスは、32セーブをマークし、ワールドシリーズでは
ブルペンの主役となりました。

ウィリー・ヘルナンデス

★プチトリビア

その昔は、ギレルモ・ヘルナンデスといっていたが、
77年のカブスをスタートに83年途中でフィリーズへ移籍し、
84年からタイガースへ移籍した。
この年は、80試合に登板して防御率1.92と一気にブレイクしました。

1976年11月5日

オークランド・アスレチックスは、ピッツバーグ・パイレーツとの間で
マニー・サンギーエン捕手と10万ドルとチャック・タナー監督を交換
という異常なトレードをします。
サンギーエンは、1シーズンのみオークランドでプレーし、
ピッツバーグに戻りました。
タナーは、パイレーツの監督として、
1979年にワールドチャンピオンとなりました。

チャック・タナー

★プチトリビア

名将といわれているタナーですが、
通算1352勝1381敗の勝率.495。
ワールドシリーズ制覇とリーグ優勝は、79年の一度だけです。

1959年11月4日

シカゴ・カブスの遊撃手アーニー・バンクスは、2年連続の
ナショナルリーグMVPを受賞する最初のプレーヤーになります。
将来、殿堂入りのバンクスは、自己ベストの打率.304、45本塁打、
143打点で勝率.500以下のチームから初めてMVPになりました。

アーニー・バンクス

★プチトリビア

バンクスは、19年間で512本塁打、1636打点をマーク。
「ミスター・カブ」として人気があったが、一度もポストシーズンの
出場が出来なかった事が残念である。

1918年11月3日

将来、殿堂入りのボブ・フェラーが、
アイオワ州バンメーターで誕生します。
フェラーは、1936年に17歳で大リーグデビュー、
最もハードな投手の一人としてすぐに有名になります。
クリーブランド・インディアンスでの18年のキャリアで
「目にも止まらぬロバート」は266試合で勝利し、
3回のノーヒッターを記録しました。

ボブ・フェラー

★プチトリビア

フェラーといえば、豪速球ですが、
意外にも「スライダー」の開発者であり、
晩年は、この新球で三振の山を築きました。

1995年11月2日

ニューヨーク・ヤンキースは、人気のあった
バック・ショーウォーターに変えて、ジョー・トーレを新しい監督に据えます。
しかし、トーレの監督成績が894勝1003敗であることに論争が起きますが、
すぐにワールドシリーズを制することで、ニューヨークのファンを説き伏せます。

ジョー・トーレ

★プチトリビア

プレーヤーとしては、9度のオールスター、
同じ年に首位打者、打点王、MVPを受賞した名選手だったが、
監督としての力量には「?」がついていた。
しかし、第31代監督にトーレを持ってきたスタインブレナー・オーナーには、
眼力があったというべきだろうか。

1962年11月1日

ヒューストン・コルト45’sは、アマチュア自由契約選手として
19歳のジョー・モーガン二塁手と契約します。
モーガンは、1963年にヒューストンで大リーグデビューし、
後に、シンシナチのビッグレッドマシンのメンバーとなりました。
22年のキャリアを終わらせた時、モーガンは得点、四球、盗塁で
歴代1位になっていました。

ジョー・モーガン(左)とソニー・ジャクソン

★プチトリビア

独特のグリップを回す動作から、快打を連発。
175cmの小さな体から長打あり、小技ありのプロフェッショナル。
1975,76年の連続MVPを受賞しています。

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1972年10月31日

フィラデルフィア・フィリーズは、三塁手のドン・マネーを
二人の投手とともにミルウォーキー・ブリューワーズへ
トレードします。
最も重要な事は、球団史上で間違いなく偉大な三塁手に
なるであろう、マイク・シュミットという名の若者のために
ホットコーナーを空けたということです。

マイク・シュミット

★プチトリビア

リーグMVP3度、本塁打王8回、打点王4回、
ゴールドグラブ10回と大リーグを代表する
スーパースターになったシュミットは、
歴代最高の三塁手ともいわれています。

1999年10月30日

長い間、ベースボール道化師として活躍した
マックス・パトキンが動脈瘤のため、79歳で死去しました。
「クラウン・プライス・オブ・ベースボール(野球の貴重な道化師)」と
命名されたパトキンは、彼の異常な首の回り方と風変わりなスタントで
50年以上に渡り、マイナーリーグの観衆を楽しませました。
また、彼は1988年にヒットした「ブル・ダーラム」で自身役を演じました。

マックス・パトキン

★プチトリビア

マックス・パトキンは、アル・シャハト、ジャッキー・プライスに次いで
3代目のベースボール道化師でした。
マイナーで投手をしていた彼は、腕の故障のためにキャリアを縮小し、
第二次世界大戦で海軍に入隊しました。
1944年にハワイでパトキンは、あのジョー・ディマジオにホームランを
打たれました。
その後、ビル・ベックに拾われ、クリーブランド・インディアンスで
コーチとなりましたが、49年の球団売買とともに辞職し、旅回りを始めました。

1969年10月29日

将来、殿堂入りのトム・シーバーは、
ナショナル・リーグのサイヤング賞に輝きます。
リーグ1位の25勝をあげて、メッツの投手陣を固定させ、
ワールドシリーズでボルチモア・オリオールズに勝利するという
驚くべき事を起こしました。

トム・シーバー

★プチトリビア

この69年は、両リーグともに東西二地区制になり、
プレーオフを導入した年。
さらに、プロフェッショナル・ベースボールが誕生してから、
100周年という記念の年に、7年連続BクラスだったNYMが
奇跡を起こし、「ミラクル・メッツ」と呼ばれました。

1968年10月28日

将来、殿堂入りのボブ・ギブソンは、
満票で自身初のサイヤング賞に輝きました。
カージナルスのエースは、268奪三振と13完封と
防御率1.12でリーグ1位となりました。
この防御率は、300イニング以上投球回では、
20世紀で最も低いものです。

ボブ・ギブソン

★プチトリビア

前年にワールドシリーズMVPを獲得。
セントルイス・カージナルスの大エースだったギブソンは、
カージナルス史上、251勝、56完封、1336四球、
3117奪三振、3884.1回は歴代1位を保持しています。

1991年10月27日

ミネソタ・ツインズとアトランタ・ブレーブスの
激しい戦いのワールドシリーズは第7戦の延長10回に
ジーン・ラーキンの一打がダン・グラッデンを生還させ、
ツインズが勝利をおさめました。
ミネソタのジャック・モリスは、10回を完封して、
シリーズMVPに輝きました。

ジャック・モリス

★プチトリビア

前年は、ともに最下位だったツインズとブレーブス。
「シンデレラ・シリーズ」と名づけられたシリーズは、
延長戦が3試合、サヨナラ決着が史上最多の4試合と
激闘でした。

1982年10月26日

フィラデルフィア・フィリーズのスティーブ・カールトンは、
史上初めて4回目のサイヤング賞に輝いた投手になりました。
37歳の左腕は、23勝と286奪三振でリーグ1位に輝き、
ナショナル・リーグでトップになりました。
しかし、1998年と2001年にロジャー・クレメンスが5回目、6回目の
サイヤング賞に輝き、カールトンは抜き去られました。

スティーブ・カールトン

★プチトリビア

カールトンの奪三振、4136は左腕で歴代2位、
通算でも4位というもので、329勝は左腕の歴代2位です。

1986年10月25日

ニューヨーク・メッツは、延長10回のウラに、
ボストン・レッドソックスの一塁手ビル・バックナーが
ムーキー・ウィルソンのゴロをトンネルしたときに、
ワールドシリーズ第6戦を勝ち取りました。
この有名なプレーで、あと1アウトでシリーズ敗退から
3得点して生き返りました。

ビル・バックナー

★プチトリビア

通常であれば、足首を負傷しているバックナーに替えて
ディブ・ステイプルトンを守備固めとするはずだったが、
一説によると、マクナマラ監督がバックナーに温情をかけて、
あえて交代させなかったのではないか、ともいわれています。

1972年10月24日

殿堂入りのジャッキー・ロビンソンが、
心臓発作のために53歳で亡くなりました。
彼がワールドシリーズで始球式を行ってから10日後のことでした。
20世紀初の黒人大リーガーのロビンソンは、人種の壁を破り、
プレーすることの勇気と感謝をもたらしました。

ジャッキー・ロビンソン

★プチトリビア

当時のGMだったブランチ・リッキーが、
プレーそのものよりも、大リーグにおける
重大で初めての出来事に対して、耐えられるだけの
強い精神力をもった人物としてロビンソンを選んだ、
といわれています。

1993年10月23日

トロント・ブルージェイズのジョー・カーターは、
フィラデルフィア・フィリーズのミッチ・ウィリアムスから
劇的な3ラン・ホーマーを放ち、ワールドシリーズを終わらせます。
カーターの一撃は、第6戦の9回に放たれ、8-6でブルージェイズに
勝利と2年連続のワールドシリーズシリーズ・タイトルをもたらしました。

ジョー・カーター

★プチトリビア

昨年、カナダに初めてワールドチャンピオンをもたらした
ブルージェイズですが、カーターの他にも、リッキー・ヘンダーソン、
ポール・モリター、ジョン・オルルドら、そうそうたるメンバーでの
V2となりました。

1992年10月22日

伝説のブロードキャスターのレッド・バーバーが
84歳で亡くなりました。
バーバーは、1934年にシンシナチ・レッズの実況を始め、
その後、ブルックリン・ドジャース、ニューヨーク・ヤンキースと
実況を重ねました。
1978年にバーバーとメル・アレンは、
野球放送について優秀と認められて、
初めて(殿堂入りの)フォード・フリック賞を受賞しました。

レッド・バーバー

★プチトリビア

バーバーは、1934年~1938年でシンシナティ・レッズ 、
1939年~1953年がブルックリン・ドジャース 、1954年~1966年に
ニューヨーク・ヤンキースの実況放送を手がけました

1975年10月21日

ボストン・レッドソックスとシンシナチ・レッズの
ワールドシリーズ第6戦は、3日間の雨天順延の後に
フェンウェイ・パークで再開しました。
シーソー・ゲームは、延長戦になり、12回のウラに
カールトン・フィスクの本塁打でレッドソックスが
7-6で劇的な勝利をおさめました。

カールトン・フィスク

★プチトリビア

この時のフィスクのホームランを見届ける仕草が
「ヌエレフダンス」と呼ばれ、記憶に残る本塁打とされています。
(ヌエレフとは、ロシアの有名なバレエダンサー)

1931年10月20日

将来、殿堂入りの外野手ミッキー・マントルが、
オクラホマ州スパビノーで誕生しました。
名前は、殿堂入りのフィラデルフィア・アスレチックスの
名捕手ミッキー・カクレインにちなんで命名され、
マントルは、通算536本塁打を記録し、ヤンキースを
18年間で12回のペナントをもたらしました。

ミッキー・マントル

★プチトリビア

マントルの父は右利きで、祖父が左利きだったため、
生まれながらのスイッチヒッターといわれています。
左右両打席本塁打は、10度記録しています。

1981年10月19日

1981年のNLCS第5戦の1-1の9回二死から、
ロサンジェルス・ドジャースのリック・マンディがモントリオールの
スティーブ・ロジャースから本塁打を放ちます。
このドラマチックな一打は、ドジャースをワールドシリーズへ導き、
さらにヤンキースを6試合で倒しました。

リック・マンディ

★プチトリビア

マンディは、第一回ドラフトの全米1位指名という
輝かしい過去を持つ。
しかし、3度目の移籍のドジャースで華々しい一打を記録。
76年のカブス時代の「星条旗事件」のヒーローでもあります。

1977年10月18日

レジー・ジャクソンがワールドシリーズ第6戦で
ドジャースに対して3本塁打した時に
「ミスター・オクトーバー」が誕生しました。
ジャクソンの驚弾は、4,5,8回の打席ですべて初球を打ちました。
6試合のシリーズ記録となる5本塁打でMVPに輝き、第6戦を8-4で勝利し、
ワールドシリーズも4勝2敗で勝ち取りました。

レジー・ジャクソン

★プチトリビア

ちなみに、翌78年のワールドシリーズも77年と同じ
NYYvsLADで、第1戦の第一打席で本塁打。
すなわち、ワールドシリーズで2年越しながら4打席連続を記録したんです。

1971年10月17日

将来、殿堂入りのピッツバーグ・パイレーツ、
ロベルト・クレメンテが第7戦でボルチモア・オリオールズの
マイク・クエイヤーに対して本塁打を打ち、信じられないような
ワールドシリーズを終わらせました。
スティーブ・ブラスは、シリーズ2勝0敗、打率.414のクレメンテが
MVPに輝きました。

ロベルト・クレメンテ

★プチトリビア

PITの世界一は、60年以来11年ぶりで、
相手のBALは3年連続リーグ制覇中で
前年は世界一の黄金期でした。

1962年10月16日

ワールドシリーズ第7戦でニューヨーク・ヤンキースは、
1-0とリードしていましたが、サンフランシスコ・ジャイアンツが
9回に2アウト2,3塁とします。
将来殿堂入りのウィリー・マッコビーが痛烈なラインドライブの
打球を放ちましたが、ヤンキースの二塁手ボビー・リチャードソンが
その打球をつかみ、シリーズを終わらせました。

ボビー・リチャードソン

★プチトリビア

この年の世界一で前年に引き続きの連覇を果たし、
63,64年もリーグ制覇するが、ここから次の世界一(77年)まで
低迷が続くことになります。

1988年10月15日

負傷者カーク・ギブソンは、ワールドシリーズ史上で
最もドラマチックな本塁打の一つを放ちました。
第一戦の9回の2アウトから、オークランドのクローザー、
デニス・エカーズリーに対して代打で登場します。
ギブソンは、右翼スタンドへ2ランを叩き込み、5-4で
ドジャースに勝利をもたらしました。

カーク・ギブソン

★プチトリビア

アスレチックスはホセ・カンセコの満塁本塁打、
エースのデイブ・スチュワートが8回を3失点で、
満を持して45セーブのエカーズリーを投入したが、
満身創痍だったギブソンの一振りに負けました。

1969年10月14日

ニューヨーク・メッツのセンター、トミー・エイジーは、
ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズ第3戦で
2度のスーパー・キャッチを魅せました。
エイジーは、さらに本塁打も放ち、5-0で勝利して、
シリーズを2勝1敗とリードしました。

トミー・エイジー

★プチトリビア

エイジーは、66年にCWSと70年のNYMで
史上初となる両リーグでゴールドグラブを受賞した選手。
そしてこの69年は、「ミラクルメッツ」が初の世界一に。

1960年10月13日

ピッツバーグ・パイレーツの二塁手、ビル・マゼロスキーは
ワールドシリーズ史上最もドラマチックな本塁打のひとつを打ちました。
ニューヨーク・ヤンキースのリリーバー、ラルフ・テリーに対して
9回ウラの先頭打者マゼロスキーは、2球目を左翼ブリーチャー席へ
叩き込み、第七戦を10-9での勝利をもたらしました。

ビル・マゼロスキー

★プチトリビア

史上初の最終戦でのサヨナラ本塁打。
PITが4-0とリードしたが、6回にNYYが5-4と逆転、
さらに2点追加で7-4から、8回にPITが9-7と再逆転。
しかし、9回表に9-9の同点になり、奇跡の本塁打が出ました。

1963年10月12日

大リーグ史上で唯一のヒスパニックーアメリカンオールスター・
ゲームが開催されました。
ラテンスターの中には、将来殿堂入りのルイス・アパリシオ、
オーランド・セペダ、ロベルト・クレメンテ、ホワン・マリシャルを
含んで、他にはフェリペ・アルー、トニー・オリーバがいました。
ラテンのスターとして知られたマニー・モタは、ナショナル・リーグを
勝利に導く、代打安打を放ちました。

マニー・モタ

★プチトリビア

ドミニカ共和国出身のモタは、代打安打150本の
歴代2位の記録を持っています。
1位は、レニー・ハリスで、212本です。

1967年10月11日

ニューヨーク・メッツは、67年シーズンをサルティー・パーカーと
残り11試合に暫定のウエス・ウエストラムを監督にしたが、
前ブルックリンのオールスター選手だったギル・ホッジスを
呼び戻します。
ホッジスは、ワシントン・セネタースの監督でしたが、
ニューヨークから100,000ドルの補償とともに移籍しました。
2年後、ホッジスはメッツを初のワールド・チャンピオンに導きました。

ギル・ホッジス ← ギル・ホッジス(右)

★プチトリビア

ギル・ホッジスは、ツー・プラトン・システムを多用した、
といわれていますが、NYYで5連覇を達成したケーシー・ステンゲルが
ツー・プラトン・システムの元祖といわれています。

1926年10月10日

セントルイス・カージナルスは、3-2とリードした7回に
満塁のピンチで代打のトニー・ラゼリに対して、
グローバー・クリーブランド・アレキサンダーをマウンドに送ります。
アレキサンダーは、ラゼリを抑えて、ボンバーズを封じ込めて、
第七戦に勝利を呼び込みました。

グローバー・クリーブランド・アレキサンダー

★プチトリビア

この時、アレキサンダーは、39歳。
この年の6月にカージナルスへ移籍してきました。
ワールドシリーズでは、第六戦で完投勝ちですでに2勝。
前日投げたロートルがカージナルスに初の世界一をもたらした。

1996年10月9日

12歳のジェフリー・マイヤーという名の少年が、
アメリカン・リーグ・チャンピオンシップ・シリーズ第一戦で
ニューヨーク・ヤンキースが5-4でボルチモア・オリオールズに
勝利する上で重要な役割を果たします。
8回に、ヤンキースのデレク・ジーターの打球をヤンキースタジアムの
ライトのフェンス際でキャッチしました。
リッチ・ガルシア審判は、本塁打と判定し、ヤンキースが4-4の
同点に追いつきました。

アメリカン・リーグ・チャンピオンシップ・シリーズ第一戦

★プチトリビア

ここで追いついたヤンキースは、延長11回に
バーニー・ウィリアムスの本塁打で第一戦を取り、
4勝1敗でワールドシリーズへ駒を進めました。

1956年10月8日

ニューヨーク・ヤンキースのドン・ラーセンは、
最初のー唯一のーワールドシリーズでの
パーフェクト・ゲームを達成します。
ヤンキー・スタジアムにおいてわずか97球で、
ベテラン右腕はブルックリン・ドジャースを2-0と封じました。
ミッキー・マントルは、ホームランと5回のスーパーキャッチで
ラーセンの偉業を助けました。

ドン・ラーセン

★プチトリビア

このラーセンという男、2年前の54年には、
3勝21敗(?!)という記録的な数字を残していて、
この56年のシーズン11勝が自身初の2ケタ勝利だった。
何が起こるかわからないから、面白いですよね。

1904年10月7日

「ハピー」ジャック・チェスブロは、ニューヨーク・ハイランダースを
ボストン・ピルグリムスから3-2の勝利し、自身のシーズン41勝目を
記録しました。
これはアメリカン・リーグ最高記録でありつづけますが、
シーズン最終日のチェスブロのワイルドピッチでハイランダースが
ペナントを逃し、甘酸っぱいものになってしまいました。

「ハピー」ジャック・チェスブロ

★プチトリビア

この年のチェスブロは、最多勝、最多完投(48)、最多イニング(454.2)と
まさに絶好調だけだっただけに、痛い痛いワイルドピッチでした。

1926年10月6日

ベーブ・ルースは、ワールド・シリーズで
1試合3本塁打をする最初のプレーヤーになります。
ルースは、第4戦で3本塁打してセントルイス・カージナルスから
ヤンキースに勝利をもたらします。
彼のパフォーマンスは、レジー・ジャクソンが
ロサンジェルス・ドジャース相手に第6戦で3本塁打する
1977年まで、誰も達成することが出来ませんでした。

ベーブ・ルース

★プチトリビア

ジャクソンの3本塁打は、すべて初球を打った驚弾でした。
5回しか出場していないワールドシリーズ打率は、.357で
生涯打率が.267ですから、まさしく「Mr.October」です。

1941年10月5日

ワールドシリーズ第4戦の9回二死から、
ドジャースのミッキー・オーウェン捕手が
3ストライクめを取り損なってしまいます。
この失策は、ヤンキースのトミー・ヘンリック外野手を
一塁に生かし、7-4でヤンキースが勝つきっかけを与えました。
ブルックリンは、勝てばシリーズを2-2のタイにすることが出来たのに
第5戦でシリーズの負けが決まりました。

ミッキー・オーウェン

★プチトリビア

このシリーズは、第1戦が3-2でNYY、
第2戦は3-2でBRN、第3戦が2-1でNYYとすべてが1点差。
この第4戦も普通なら4-3でBRNが勝利するところだったのに。
ひとつのプレーが明暗を分けることは、多々あります。

1955年10月4日

ブルックリン・ドジャースは、ワールド・シリーズ第七戦で
ニューヨーク・ヤンキースを2-0でシャットアウトして、
初のワールドチャンピオンに輝きました。
強打の一塁手、ギル・ホッジスがジョニー・ポドレスの完投勝ちを
助ける2打点を稼ぎ出しました。
ドジャースは、これまで1941,47,49,52,53年とワールドシリーズで
すべてヤンキースに負けて、世界一になれませんでした。

ブルックリン・ドジャース

★プチトリビア

敵地で2連敗したドジャースは、
地元に帰って、3連勝で一気に逆王手。
第六戦は落としたが、最終戦で悲願を達成しました。

1951年10月3日

ニューヨーク・ジャイアンツのボビー・トムソンは、
ブルックリンのラルフ・ブランカから「世界を駆け巡った」
ペナントを勝ち取る3ラン・ショットを放ちました。
ジャイアンツは、ナショナル・リーグ・プレーオフで
4-1とリードして9回に入りましたが、トムソンの一撃で
ステージからひきずりおろされました。

ボビー・トムソン

★プチトリビア

この時は、ワンゲーム・プレーオフではなく、3試合制でした。
1勝1敗で迎えた第3戦の9回ウラ、2-4からの奇跡の逆転3ランでした。

1978年10月2日

バッキー・デントの信じられない本塁打で、
ニューヨーク・ヤンキースがフェンウェイ・パークでの
ワンゲーム・プレーオフでボストン・レッドソックスを破ります。
2点を追う6回、マイク・トーレスから放ったデントの打球は、
グリーンモンスターを越えていく3ランになりました。
ヤンキースは、5-4で勝利し、アメリカン・リーグ・チャンピオンシップ
シリーズに進出しました。

バッキー・デント

★プチトリビア

この78年は、一時14ゲーム差まで広がっていたが、
最終戦で同率首位に追いつき、デントの奇跡の逆転3ランで地区V。
一気にワールドシリーズまで制し、77年に続き、連続世界一となった。

1961年10月1日

ニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスが、
伝説のベーブ・ルースの34年の記録を破る
シーズン61号本塁打を放ちました。
マイルストン・ショットは、ボストンのトレーシー・スタラード
から放ち、ヤンキースを1-0での勝利に導きました。

ロジャー・マリス

★プチトリビア

生え抜きのミッキー・マントルと「MM砲」と呼ばれたが、
地元では、「マントルは善玉、マリスは悪玉」といわれ、
ベイブ・ルースの記録をマントルに抜いてもらいたい、という
感情から「ニューヨークは嫌な町だ」とマリスは言っていました。

大好き!!MLB2-アメーバ版

すいません!一気です。

1972年9月30日

ピッツバーグ・パイレーツのスター、ロベルト・クレメンテが、
キャリア通算3,000本目のヒットを記録します。
ニューヨーク・メッツに5-0で勝利した5回にジョン・マトラックから
マイルストンヒットを放ちました。
このヒットは、1972年の大晦日に飛行機事故で亡くなるクレメンテの
レギュラー・シーズン最後のヒットになりました。

ロベルト・クレメンテ

★プチトリビア

最終戦試合前に「今日打てなければ、
3000本は打てないな」と同僚にもらしていたそうで、
31日の救援機が飛び立つ際も「もし墜落しても
それは天命だ」ともいっていたそうです。
自分の運命を知っていたのかも。。。。

1954年9月29日

ウィリー・メイズは、ワールド・シリーズ第一戦において
大リーグ史上で最も偉大な「キャッチ」を魅せました。
2-2の同点の8回に、インディアンスのビック・ワーツが
ポロ・グラウンズのセンター深くに打球を飛ばします。
メイズは、460フィートを背走して、クリーブランドの二人の
走者が得点したであろうというヒットを防ぎました。
ジャイアンツは、この試合に勝ち、このシリーズは、
インディアンスをスイープしました。

ザ・キャッチ

★プチトリビア

メイズはこの年、打率.345で初の首位打者。
41本塁打、110打点でナ・リーグMVPに輝きました。

1941年9月28日

ボストン・レッドソックスのテッド・ウィリアムスは、
シーズン最終戦のダブルヘッダーで8打数6安打して
シーズン打率を.406としました。
ウィリアムスは、ゲースを欠場すれば.400を「保護」出来たにも
関わらず、試合に出場して、マイルストンの最後の打者になっています。

テッド・ウィリアムス

★プチトリビア

この4割が、現在でも最後の4割打者となっています。
さらに、1942年と47年に三冠王になり、
史上で二度の三冠王は、ロジャース・ホーンスビーと
ウィリアムスだけなのです。

1963年9月27日

ヒューストン・コルト45’sは、大リーグ史上でラインアップの
9人全員を新人にするという記録をつくりました。
全員新人のラインアップは、ハリー・クラフト監督が考案し、
その中には、将来殿堂入りのジョー・モーガン、オールスター
選手となるラスティー・スタウブとジミー・ウィンがいました。
しかし、コルト45’sは、10-3でニューヨーク・メッツに敗れました。



★プチトリビア

一番SS ソニー・ジャクソン
二番2B ジョー・モーガン
三番CF ジミー・ウィン
四番1B ラスティ・スタウブ
五番RF アーロン・ポインター
六番LF ブロック・デービス
七番3B グレン・ボーン
八番 C ジェリー・グロート
九番 P ジェイ・ダール
というのが、この日のコルト・45’sのオーダーです。

1971年9月26日

シカゴ・カブスのアーニー・バンクスが、大リーグで最後の
試合をプレーしました。
将来,殿堂入りのバンクスは、キャリア最後なる2,583本目の
安打ーフィリーズのケン・レイノルズに対して内野安打ーを
放ち、最終打席ではリグレー・フィールドのファンからスタンディング
オベーションを受けました。
その時は、バンクスの通算512本塁打は、歴代5位タイの記録でした。

アーニー・バンクス

★プチトリビア

バンクスといえば、遊撃手が有名ですが、
一塁手としての出場試合数のほうが、長いのですよ。
19年間カブス一筋だったが、ポストシーズンの出場は、
一度も訪れなかった。

1965年9月25日

カンザスシティ・アスレチックスのサッチェル・ペイジは、
大リーグにおいて最年長選手として登板します。
59歳といわれているペイジは、1953年以来の大リーグで、
ボストン・レッドソックスに対して、リリーフで3回を無失点に抑えます。
伝説のニグロリーガーは、オールスター選手のカール・ヤストレムスキーに
1安打を許しただけでした。

サッチェル・ペイジ

★プチトリビア

あの「火の玉投手」といわれた豪球ボブ・フェラーが、
「私の球がチェンジアップに見えた」といわしめた超豪球に
まさしく針の穴を通すコントロールを持っていたというから驚き。
300完封、55度のノーヒッターという伝説の記録もある(?!)らしい。

1992年9月24日

将来、殿堂入りのトロント・ブルージェイズ、
デイブ・ウィンフィールドが大リーグ最年長の
シーズン100打点を記録します。
40歳のウィンフィールドは、8-2でボルチモア・
オリオールズに勝利した試合で本塁打と二塁打を
放ちました。
彼は、シーズン終了時に103打点を記録しました。

デイブ・ウィンフィールド

★プチトリビア

ミネソタ大学の卒業時には、MLBの他に、NBA,ABA,NFLからも
ドラフト指名を受けたウィンフィールド。
マイナーを経ずにサンディエゴ・パドレスで大リーグデビュー。
5ツールプレーヤーのさきがけで、すべての部門で平均以上をマーク。
91年には、史上最年長の39歳でサイクル安打を達成しました。

1908年9月23日

ニューヨーク・ジャイアンツのフレッド・マークルは、
大リーグ史上最も有名な失態を演じました。
アル・バードウェルがヒットを放ち、カブスに対して
ウィニングランでアルハリー・マコーミックがホームに
帰ったとき、マークルは一塁走者でした。
マークルが二塁ベースを踏まずに帰ってしまったために、
アウトを宣告され、得点は無効になり、試合は同点のまま
再試合となります。
ジャイアンツとカブスが同率でシーズンを終えたために、
この再試合が優勝決定戦となりました。
結局、この再試合を4-2で勝ったカブスがナショナル・リーグ
ペナントを手にしました。
「マークルのボーンヘッド」です。

フレッド・マークル

★プチトリビア

この話には、前段があって、当時の習慣からすると、
マークルのこの行為は通常のものでボーンヘッドには当たらないというもの。
だが、これと同じことが、3週間前に起きていて、パイレーツ対カブスだった。
塁審も同じ人であり、カブスのエバース二塁手が塁審と今後はキッチリ見る、
という確約を取り付けていた矢先の出来事だ、というものでした。

1968年9月22日

ミネソタ・ツインズのセザール・トバルは、
オークランド・アスレチックスに2-1で勝利した試合で
全ポジションを守りました。
1試合で全ポジションを守った唯一の選手のバート・キャンパネリスが
偶然にもトバルがマウンドに上がった時の最初の打者でした。

セザール・トバル

★プチトリビア

ベネズエラ出身のトバルは、元々器用な選手で、
この試合で、あのレジー・ジャクソンを三振に切りました。

1964年9月21日

フィラデルフィア・フィリーズは、チコ・ルイズの驚くべき
ホーム・スチールでシンシナチ・レッズに1-0で敗れます。
この敗戦は、フィリーズの10連敗のスタートとなり、
6.5ゲーム差でリードしていたにもかかわらず、
セントルイス・カージナルスに1ゲーム差の
ナ・リーグ2位タイで閉幕してしまいました。

チコ・ルイズ

★プチトリビア

1950年以来の優勝を逃したフィリーズは、
1976年まで地区優勝出来ませんでした。

1968年9月20日

将来、殿堂入りのニューヨーク・ヤンキースの
ミッキー・マントルは、キャリアの最終本塁打を放ちます。
マントルは、ボストン・レッドソックスのジム・ロンボーグから
536本目を叩き込みました。
そして、マントルは、1969年のスプリング・キャンプ中に
引退を発表しました。

ミッキー・マントル

★プチトリビア

通算536本塁打は、スイッチヒッターの歴代1位記録。
左右両打席本塁打10度は、エディー・マレーに次ぐ、歴代2位です。

1973年9月19日

アトランタ・ブレーブスのデイビー・ジョンソンは、
二塁手の1シーズン最多本塁打を更新します。
彼の43号本塁打は、4-1でロサンジェルス・ドジャースに
敗れた試合で放たれ、殿堂入りのロジャース・ホーンスビーを
凌ぎました。
ジョンソンのシーズン合計43本は、
本塁打王ウィリー・スタージェルに1本及ばず、2位でした。

デイビー・ジョンソン

★プチトリビア

実際のところは、ジョンソンの1本が代打で放ったものであるため、
記録集によっては、42本でホーンスビーとタイ記録としているのもあります。

1996年9月18日

ボストン・レッドソックスのロジャー・クレメンスが、
自身が持つ大リーグ記録の1試合20奪三振に並びます。
「ザ・ロケット」は、デトロイト・タイガースを4安打で4-0と
封じました。
クレメンスは、1986年4月にシアトル・マリナーズ相手に
この記録を達成していました。

ロジャー・クレメンス

★プチトリビア

もう一人、1試合20奪三振を達成しているのが、
CHCのケリー・ウッド。
1998年5月6日のHOU戦で、1安打完封だった。
大リーグ記録としては、1962年9月12日に
ワシントン・セネタースのトム・チェイニーが16回で21奪三振がある。

1984年9月17日

カリフォルニア・エンジェルスのレジー・ジャクソンが、
通算500号本塁打を達成しました。
将来、殿堂入りの彼は、カンザスシティ・ロイヤルズの
サウスポー、バッド・ブラックから放ちました。
これは、1978年にサンフランシスコ・ジャイアンツの
ウィリー・マッコビーが到達して以来で、史上13人目の
マイルストン到達でした。

レジー・ジャクソン

★プチトリビア

レジーには、もうひとつの三振記録という大きな勲章がある。
通算2597三振は、歴代ダントツの1位で2位は、
サミー・ソーサの2194、3位はアンドレス・ガララーガの2003なので
これは安泰(?!)の記録か。

1975年9月16日

ピッツバーグ・パイレーツのレニー・スティネットは、
リグレー・フィールドでのシカゴ・カブス戦で22-0で
大勝した試合で、7打数7安打、5得点を記録しました。
パイレーツの二塁手は、9イニングで7打数7安打の
大リーグ史上唯一の選手だった1892年のボルチモア・オリオールズの
ウィルバート・ロビンソンと並びました。

レニー・スティネット

★プチトリビア

ウィルバート・ロビンソンは、元々名将ジョン・マグローと親友だったが、
1913年のWSでの采配をめぐって口論となり、コーチを解任。
ライバルのドジャースで監督となり、「アンクル・ロビー」として
ファンや選手から愛された存在だった。

大好き!!MLB2-アメーバ版

すいません!一気です。

1963年9月15日

フェリペ、ヘスス、マティのアルー三兄弟は、
サンフランシスコ・ジャイアンツの外野を初めて一緒に守りました。
13-5でピッツバーグ・パイレーツに勝った試合で、
監督のアルビン・ダークは、先発のウィリー・メイズと
ウィリー・マッコビーを試合から外し、ヘススとマティを
1イニングだけ入れました。

ヘスス、マティ、フェリペのアルー三兄弟

★プチトリビア

長男のフェリペが2101安打、
次男のマッティが1777安打、
三男のヘススが1216安打、
フェリペの息子のモイセスも1987安打と
アルー一族で7000本以上の安打を記録しています。

1968年9月14日

デトロイト・タイガースのデニー・マクレインは、
5-4でオークランド・アスレチックスを破り、
1934年のディジー・ディーン以来の30勝投手となります。
マクレインは、最終的に防御率1.96、31勝6敗で
満場一致でサイヤング賞とアメリカン・リーグMVPを
勝ち取ります。
彼は、今でも1シーズンで30勝した最後の投手です。

デニー・マクレイン

★プチトリビア

翌69年も24勝と9完封がリーグ1位で
2年連続MVPに輝いた。
しかし、それからわずか3年後には、
表舞台から消え去りました。
栄光から挫折を絵に描いたような人です。

1971年9月13日

ボルチモア・オリオールズのフランク・ロビンソンは、
デトロイト・タイガースとのダブルヘッダーの2試合で
本塁打を打ち、史上11人目の500本塁打クラブ入りをしました。
ロビンソンは、オリオールズをアメリカン・リーグのペナントに
導く為に、最終的に28本塁打を放ちました。

フランク・ロビンソン

★プチトリビア

1961年にCINでMVP,66年にBALでMVPとなり、
両リーグでMVPを獲得した最初の選手。
66年には三冠王にも輝いたが、これは黒人初で、
75年からCLEで兼任監督をつとめ、これも黒人初と
大リーグにおける初ものづくし王でもあります。

1979年9月12日

ボストン・レッドソックスのカール・ヤストレムスキーは、
ライバルのニューヨーク・ヤンキースに9-2で勝利した
試合でジム・ビーティーから3000本目の安打を放ちます。
1961年にヤスが新人としてデビューしたフェンウェイ・パークで
マイルストンヒットは、達成されました。
将来、殿堂入りのヤスは、3000本安打と400号本塁打の
両方を達成した、最初のアメリカン・リーグのプレーヤーになりました。

カール・ヤストレムスキー

★プチトリビア

BOSといえば、テッド・ウィリアムスが一番と思われがちだが、
3308試合、11988打数、1816得点、3419安打、5539塁打、
646二塁打、1844打点、1157長打の球団記録保持者がヤスです。

1985年9月11日

シンシナチ・レッズのピート・ローズは、タイ・カッブの
4,191安打という野球の最も有名な記録の一つを破りました。
ローズの新記録の安打は、2-0で勝利した試合で
サンディエゴのエリック・ショーに対して、1回に放ちました。
「チャーリ・ハッスル」は、最終的に4,256安打でキャリアを
終わらせました。

ピート・ローズ

★プチトリビア

ローズは、この他にも出場試合数3562、打席数14053、
年間200安打以上10回、最多単打3215の歴代1位記録保持者ですが、
野球賭博に関わったとして永久追放処分を下され、殿堂入りはしていません。

1974年9月10日

セントルイス・カージナルスのルー・ブロックは、
モーリー・ウィルスが持つシーズン最多盗塁記録に達し、
それを破ります。
フィラデルフィア・フィリーズに8-2で敗れた試合の
1回にタイ記録となる104個目を、7回に105個目を
決めて、記録を抜きました。
将来、殿堂入りのブロックは、その年に118個までのばしました。

ルー・ブロック

★プチトリビア

1979年に40歳で打率.304をマークし、
オフにオールスターチームの一員として来日した。
その時に「日本ハム入りか」という噂が飛び交いました。
結局、入りませんでしたけどね。

1965年9月9日

ロサンジェルス・ドジャースのサンディー・コーファックスが
シカゴ・カブスに対して、パーフェクト・ゲームを達成します。
コーファックスは14奪三振で1-0で勝利し、
4度のノーヒッターを達成した初の投手になります。
四球で出たルー・ジョンソンが、エラーによって生還し、
この試合唯一の得点を5回にあげました。

サンディー・コーファックス

★プチトリビア

62年6月30日のNYM戦、63年5月11日のSF戦、
64年6月4日のPHI戦と3年連続でノーヒッターを達成していて、
この4度目で4年連続となり、最後が完全試合というものでした。

1998年9月8日

セントルイス・カージナルスのマーク・マグワイアは、
シカゴ・カブスのスティーブ・トラクスルからシーズン62本目の
本塁打を放ち、大リーグ史上最も有名な記録の一つを破ります。
皮肉にも、ロジャー・マリスの記録を破った一撃は、
わずか341フィートと計測され、ビック・マックのそのシーズンの最も短い本塁打でした。

マーク・マグワイア

★プチトリビア

ロジャー・マリスが1961年に61本塁打してから
37年ぶりの出来事でしたが、それから3年後の2001年に
バリー・ボンズが73本塁打して記録を塗り変えました。

1911年9月7日

ボストン・ブレーブスの44歳、サイ・ヤングと
フィラデルフィア・フィリーズの驚異の新人、グローバー・
クリーブランド・アレキサンダーが忘れられない対戦をします。
若いアレキサンダーは、1安打投球で1-0で勝利し、
通算で373勝を記録しますが、老いたヤングは511勝のまま
すぐに引退しました。

サイ・ヤング

★プチトリビア

通算では、511勝のヤングは1位、2位がウォルター・ジョンソンの417勝、
3位がアレキサンダーとクリスティー・マシューソンの373勝です。

1995年9月6日

ボルチモアのカル・リプケン・Jrは、殿堂入りのルー・ゲーリックが
保持していた記録を抜く、2131試合目の連続出場を果たします。
オリオールズとカリフォルニア・エンジェルスが歴史的な試合の
4イニングと半分を終わらせた時に公式記録となりました。
22分間の中断の間、カムデン・ヤーズをグルリと一周する
セレモニーを行いました。

カル・リプケン・Jr

★プチトリビア

56年間破られなかった大記録を破ったリプケンは、
1998年9月20日に自ら出場する事を辞めて、記録をストップさせました。

2002年9月5日

テキサス・レンジャースのアレックス・ロドリゲスは、
ボルチモア・オリオールズに11-2で勝った試合で
2本塁打します。
A-Rodは、シーズン2回目の50本塁打を放ち、
大リーグ史上5人目となる、2年連続で大台に乗せました。
前年52本塁打の強打の遊撃手は、2002年は57本塁打を
記録しました。

アレックス・ロドリゲス

★プチトリビア

2001年に作った遊撃手としての52本塁打は、大リーグ記録で、
2002年の57本塁打でこれを更新しました。

1916年9月4日

将来殿堂入りのシンシナチ・レッズのクリスティー・マシューソンと
シカゴ・カブスのモーデカイ・「スリーフィンガー」・ブラウンの二人が
大リーグ通算25回目の対決をしました。
マシューソンは、10-8で勝利し、ナショナル・リーグ記録の
373勝目を記録しました。

クリスティー・マシューソン

★プチトリビア

マシューソンがレッズで投げたのは、この1試合のみ。
シーズン20以上を13回(12年連続)は、サイ・ヤングの16回に次ぐ2位で、
勝率.665(373勝188敗)は、いまでもナショナル・リーグ記録です。

1970年9月3日

シカゴ・カブスのビリー・ウィリアムスは、
ナショナル・リーグ記録となる1,117試合連続出場を記録します。
(試合は、フィラデルフィア・フィリーズに7-2で負けました)
1983年にスティーブ・ガービーが1,207連続出場するまで
ナショナル・リーグ記録として残りました。

ビリー・ウィリアムス

★プチトリビア

キャリア18年間のうち、16年をシカゴ・カブスで過ごしました。
大物打ちではありませんでしたが、2711安打、426本塁打、
1475打点を残し、そのスイングは美しいといわれた好打者。
新人王、首位打者1回、最多安打1回、得点王1回のタイトルを
とっています。

1996年9月2日

ニューヨーク・ヤンキースのデイビット・コーンが、
オークランド・アスレチックス相手に7回を無安打に抑え、
右腕の動脈瘤から劇的な復活をとげました。
ジョー・トーレ監督は、用心の為コーンを降板させますが、
アスレチックスは、9回にマリアーノ・リベラから放った内野安打で
ノーヒッターから開放されました。

デイビット・コーン

★プチトリビア

16年間で2655奪三振、奪三振王2回、シーズン200奪三振
6回の本格派右腕。
メッツ時代にコーン・ヘッドで有名になりました。

1971年9月1日

ピッツバーグ・パイレーツは、大リーグ史上初となる
先発ラインアップがすべて黒人になりました。
このラインアップには、後に殿堂入りするウィリー・スタージェル、
ロベルト・クレメンテが含まれていて、スリーリバース・スタジアムで
フィラデルフィア・フィリーズを10-7で破りました。

ウィリー・スタージェル

プチトリビア

この1971年は、パイレーツが1960年以来の世界一になった
年で、相手は前年世界一のボルチモア・オリオールズ。
フランクとブルックスの両ロビンソンにデイブ・マクナリー、
ジム・パーマーを擁すオーズが有利と見られていたが、
2連敗から盛り返したパイレーツが3連勝で先に王手をかけるも
オーズも意地で3-3のタイに持ち込むが、結局、総合力で
パイレーツが大接戦をものにしました。
MVPには、ロベルト・クレメンテが輝きました。

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すいません!一気です。

1982年8月31日

ヒューストン・アストロズのドン・サットン投手と
ニューヨーク・ヤンキースのトミー・ジョン投手が移籍しました。
サットンは、ミルウォーキー・ブリューワーズへ、
ジョンは、カリフォルニア・エンジェルスへの移籍でした。
両チームとも地区優勝のための戦力補強であり、
みごとに両チームとも地区優勝を果たしました。

ドン・サットン

★プチトリビア

このサットン、ジョンの移籍は、トレードとは呼ばず、
正式にはウェーバーによる移籍といいます。
8月31日までに選手登録をすれば、ポストシーズンに出場できる
期限だったということです。
こういったペナントレースを制する為のトレードを
「フラッグ・ディール」といいます。

1918年8月30日

将来、殿堂入りのテッド・ウィリアムスがカリフォルニア州
サンディエゴで誕生します。
「スプレンディッド・スプリンター(素晴らしきスプリンター)」は、
1939年に大リーグにデビューし、22年間アメリカン・リーグの
投手たちに怖がられ続けました。
彼は、1966年資格初年度で殿堂入りを果たしました。

テッド・ウィリアムス

★プチトリビア

通算打率.344、2654安打、521本塁打、1839打点。
三冠王が2度、MVPが2度、1939年の打率.406が
シーズン最後の4割打者として未だにやぶられません。

1977年8月29日

セントルイス・カージナルスのルー・ブロックが、
タイ・カッブが49年前に記録した通算892盗塁を
破る893,894盗塁を、サンディエゴ・パドレスに
4-3で負けた試合で記録しました。
ブロックの938盗塁は、1990年にリッキー・ヘンダーソンが
追い抜くまで、ずっと歴代1位を守りつづけました。

ルー・ブロック

★プチトリビア

ブロックのデビューはシカゴ・カブス。
今ひとつの成績だった彼は、
64年途中でカージナルスへトレードされた。
なぜか、ブロックが爆発したことでカージナルスは世界一に。
以降、歴代2位となる938盗塁を記録するスターになりました。
トレードで生き返ったいい例でした。

1970年8月28日

サンフランシスコ・ジャイアンツのホワン・マリシャルが
ピッツバーグ・パイレーツを5-1で破り、
自身通算200勝を達成しました。
「ドミニカン・ダンディ(ドミニカの伊達男)」は、
通算243勝をあげて、1983年に殿堂入りしました。

ホワン・マリシャル

プチトリビア

足を高く上げる「ハイキック投法」でならしたドミニカン。
1963年から7年間で20勝と200奪三振を6回ずつ記録、
16年間で243勝、2303奪三振。(25勝以上も3回)
1965年のドジャース、ローズ・ポロ捕手との乱闘は有名。
最多勝2回、最優秀防御率1回、最高勝率1回ですが、
惜しいところでサイヤング賞には手が届きませんでした。

1982年8月27日

オークランド・アスレチックスのリッキー・ヘンダーソンが、
ルー・ブロックのシーズン118盗塁を破ります。
ヘンダーソンは、ミルウォーキー・ブリューワーズに5-4で
負けた試合で、3回に119個目の盗塁を決め、
試合が終わるまでにあと3盗塁をします。
彼は、シーズン終了時に驚異的な130盗塁を記録しました。

リッキー・ヘンダーソン

★プチトリビア

ヘンダーソンは、盗塁記録(1,406)ばかりでなく、通算得点2,295、
通算四球2,190、通算先頭打者本塁打81は、歴代1位の記録です。

1947年8月26日

前ニグロ・リーグのスター、ダン・バンクヘッドが
大リーグ史上初のアフリカ系アメリカ人投手として
ブルックリン・ドジャースでデビューします。
バンクヘッドは、大リーグ初打席で本塁打した
最初のナショナル・リーグの投手となりましたが、
彼は、3回1/3を10安打8失点というマウンドで
忘れられない経験もしました。

ダン・バンクヘッド

★プチトリビア

バンクヘッドは、この年0勝0敗、防御率7.20。
48,49年は大リーグでは投げず、50年に9勝をあげましたが、
51年に再び0勝で大リーグから消えました。
結局3年間で9勝5敗、防御率6.52が全成績です。

1952年8月25日

デトロイト・タイガースのバージル・トラックスは、
シーズン2度目のノーヒッターを達成しました。
この試合で、遊撃手ジョニー・ペスキーのプレーが
最初はエラーと判定され、それからヒットに変わり
またエラーに変わり、ノーヒッターとなりました。
信じられませんが、トラックスはこのシーズンに
たった5勝しかあげられませんでした。

バージル・トラックス

★プチトリビア

自慢のファースト・ボールでマイナーで418奪三振も
記録していますが、52年はシーズン2度のノーヒッター
にも関わらず、5勝19敗という成績(?)でした。
49年には奪三振王と完封で1位となっています。

1951年8月24日

セントルイス・ブラウンスのオーナー、ビル・ベックは
彼の有名な出し物の一つを披露します。
スポーツマンズ・パークの試合でベックは、
1000人のファンに「グランドスタンド・マネージャー」に
なることを許します。
プラカードを使い、ラインアップや戦略をきめて、
ファンは最下位のブラウンスをフィラデルフィア・アスレチックスから
5-3の勝利を呼び込みました。

グランドスタンド・マネージャー

★プチトリビア

ベックはフィリーズを初めとして、タイガースやホワイトソックス、
ブラウンス、インディアンスを買収し、NBAにも進出するほどの
各方面でその名を響かせました。

1980年8月23日

カラフル・オーナーのチャーリー・フィンリーは、
約1300万ドルでオークランド・アスレチックスを
リーバイ・ストラウス社に売却します。
オークランドがフィンリーのオーナー時代には、
3年連続ワールドチャンピオンに輝きました。
フィンリーは、また、指名打者制の採用、
ワールドシリーズのナイトゲーム開催や
ユニフォームをマルチカラーにしたりしました。

チャーリー・フィンリー

★プチトリビア

フィンリーはこれ以外にも、オレンジボールの採用や
ボールガール、3ボールで出塁など不評を買ったアイデアが
山のようにあったが、指名打者制やワールドシリーズの
ナイトゲームは今でも残っている好評のアイデアだった。

1989年8月22日

テキサス・レンジャースのノーラン・ライアンは、
オークランド・アスレチックスに2-0で負けた試合で
5回にリッキー・ヘンダーソンから大リーグ史上初となる
5,000奪三振のマイルストンを達成します。
将来殿堂入りのライアンは、1993年に引退するまで、
5,714人のバッターを三振に取りました。

ノーラン・ライアン

★プチトリビア

奪三振が1位なら、与四球も2,795個で1位です。
さらに、7回のノーヒッターは、この先破る者が出ないかも
しれないほどの大大大記録です。
7回目の44歳4ヶ月も最年長記録となっています。

1975年8月21日

ボストン・レッドソックスのトニー・コニグリアロが
カムバックを試みましたが、引退を発表しました。
コニグリアルロは、1967年スターダムへ登りつめる寸前に
命を落とすような死球を受け、彼のキャリアを短くします。
彼は1969年に視覚問題をクリアして復帰しましたが、
1971年に最初の引退をしていました。

トニー・コニグリアロ

★ピチトリビア

1963年プロ入り、翌64年24本塁打したが、ケガのために
新人王を逃がしました。
65年に32本塁打でリーグ最年少本塁打王に。
しかし67年に死球で頬骨を骨折、その影響で68年は全休した。
69年、20本塁打、83打点の驚異のカムバックを果たし、
70年には36本塁打、116打点を記録するも死球後遺症で
71年に一度引退、75年再度カムバックを試みたが叶いませんでした。

1960年8月20日

ボストンの伝説、テッド・ウィリアムスは、オリオールズとの
ダブルヘッダーで通算2000四球を記録し、唯一マイルストンに
到達していたベイブ・ルースに続きました。
「素晴らしきスプリンター」は、また第一試合で通算514,515本塁打を
連発し、8-6での勝利に貢献しました。

テッド・ウィリアムス

★プチトリビア

ルースが3位で通算2062、ウィリアムスが4位の2019ですが、
歴代1位がバリー・ボンズで2558、
2位がリッキー・ヘンダーソンの2190です。

1951年8月19日

ビル・ベックの有名なアイデアの一つとして、
セントルイス・ブラウンスは、デトロイト・タイガース戦で
身長3フィート7インチ(108cm)のエディー・ガデルを
代打として打席に立たせます。
小人のガデルは、ストライクゾーンがインチ半小さくなり、
簡単に四球で歩き、代走と交代しました。

エディー・ガデル

★プチトリビア

元々ガデルはメッセンジャーボーイでした。
この時付けた背番号が1/8というからおかしい。
この時のア・リーグ会長のウィル・ハリッジは、
ガデルの名を公式記録から削除しようとしたが
失敗に終わっています。

1934年8月18日

将来殿堂入りのロベルト・クレメンテが、
プエルト・リコ、カロリナで誕生します。
クレメンテは1955年にピッツバーグ・パイレーツで
大リーグデビューし、18年間で打率.317を残します。
彼は、飛行機事故で悲劇的にキャリアを閉ざされるまでに
12度のオールスター・チームに名を連ね、
12回のゴールドグラブ賞に輝きました。

ロベルト・クレメンテ

★プチトリビア

クレメンテの魅力は4度の首位打者に輝いた打撃ももちろん、
右翼からの強肩と広い守備範囲で61年の27回を最高に
最多捕殺5回、なんと言っても12年連続ゴールドグラブは
伊達じゃありませんでした。
亡くなった今でも、カリブ諸国では最大のスーパースターです。

1920年8月17日

29歳のクリーブランド・インディアンスの遊撃手
レイ・チャップマンは、ニューヨーク・ヤンキースのスター投手、
カール・メイズに死球を当てられた一日後に亡くなります。
頭蓋骨骨折のチャップマンは、大リーグ史上初で唯一、
グラウンドで亡くなった選手になりました。
メイズは、後に八百長の疑惑を持たれたり、やや暗い性格で
あまり好感を持たれてはいなかったが、非難は免除されました。
しかし、この一件は、ルール改正の引き金となりました。

レイ・チャップマン

★プチトリビア

当てたメイズは、1915年のレッドソックスをスタートに、
ヤンキース、レッズそしてジャイアンツと渡り歩きました。
下手から内角を攻める強気な投球で、15年間で20勝を
5回記録しています。
20年も26勝、翌27年も事故をひきずることなく27勝をあげて
タフなところをみせました。

1948年8月16日

ゲームでの最もカリスマ的なスターの一人である、
本塁打王ベイブ・ルースが53歳で咽頭ガンで亡くなります。
その3週間前には、「ベイブ・ルース物語」の映画初日に
公の場に姿を現わしていました。
1936年に殿堂入りし、通算714本塁打を打ちました。

ベイブ・ルース

★プチトリビア

ルースの12回の本塁打王は未だに残る大記録ですが、
投手として、10年のキャリアで163試合で148先発、
94勝、107完投、17完封、1221.1イニング、488奪三振
防御率2.28というのは、意外と知られていない。

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すいません!4日分です。

1985年8月4日

シカゴ・ホワイトソックスのトム・シーバーが、
ヤンキー・スタジアムでの「フィル・リズトー・デイ」に
ニューヨーク・ヤンキースを4-1で破り、
自身通算300勝目をあげます。
同じ日、カリフォルニア・エンジェルスのロッド・カルーが
前に所属していたミネソタ・ツインズ戦で通算3000本目の
安打を記録しました。

ロッド・カルー

★プチトリビア

シーバーは、大リーグ入りの時に大学野球協約違反で
一旦は契約を無効にされたというお騒がせの経緯があるが、
世間を騒がせたのにも実力がしっかり備わっていたわけでした。
いきなり16勝13敗、防御率2.76で新人王に輝き、
1969年には、25勝をあげて、「ミラクル・メッツ」のエースとして
世界一に貢献しました。
カルーは、パナマ出身の安打製造機です。

1948年8月3日

黒人リーグの伝説的人物、サッチェル・ペイジが
大リーグ・キャリアをスタートさせます。
42歳の将来殿堂入りの彼は、7回を投げてクリーブランド・
インディアンスがワシントン・セネタースを5-3で勝利しました。
その後、リリーフとしてマウンドにあがり、そのシーズンで
6勝1敗、防御率2.48という成績を残しました。

サッチェル・ペイジ

★プチトリビア

ペイジは1906年の生まれ年となっていますが、
実際のところは不明で、「ヤギが出生証明書を食べたから」
とペイジ自身がいっています。
160キロを軽く越える豪速球に、針の穴をも通すコントロール。
まさに敵なしのペイジでしたが、大リーグへの人種の壁だけは
なかなか壊せなかったのが、なんとも悔しいところです。

1979年8月2日

ニューヨーク・ヤンキースのサーマン・マンソンが、
オハイオ州のアクロンーカントン空港の滑走路の
数百メートル手前で彼の自家用飛行機が墜落し、
亡くなります。
7回のオールスター、1970年にはアメリカン・リーグ
新人王、1976年にはアメリカン・リーグMVPを獲得しました。
ちょうど32歳で死去したマンソンの殿堂入りのキャリアを
なくしてしまいました。

サーマン・マンソン

★プチトリビア

マンソンは68年のドラフト1位(全米4位)でヤンキース入り。
73年から75年まで3年連続ゴールドグラブ賞にも輝き、
ヤンキースの主将も務めた人物でした。
ポストシーズンに強く、プレイオフでは打率.339、
ワールドシリーズでは打率.373を記録しています。

1972年8月1日

サンディエゴのネイト・コルバートは、アトランタ・ブレーブスとの
ダブルヘッダーで5本塁打、13打点の大リーグ記録を作ります。
コルバートは、第一試合で2本塁打、5打点をあげ、第二試合で
グランドスラムと2本の2ラン・ホームランを放ちます。
彼のおかげで、パドレスは9-0、11-7とダブルヘッダーに
連勝しました。

ネイト・コルバート

★プチトリビア

1966年にヒューストン・アストロズでデビューしたコルバートですが
芽が出ず、69年に新球団パドレスへ拡張ドラフトで移籍します。
その年に24本塁打、翌70年に38本塁打して主砲に。
そして、72年も38本塁打しました。
また、打つだけでなく、一塁手として72,73年に連続最多捕殺も記録。
しかし、背中を痛めて、わずか30歳で引退となりました。

◆今日の気になった出来事

エンゼルス大谷翔平投手(27)が、2カ月連続で
リーグの月間最優秀選手(MVP)に選ばれた。
2カ月続けての受賞は球団史上初めてで、メジャー全体でも
12年のチェイス・ヘッドリー内野手(パドレス)以来の快挙となった。

7月は月間打率2割8分2厘、リーグ最多タイの9本塁打、19打点のほか、
13日の球宴には投打「二刀流」で選出されるなどの活躍が認められた。

この日「2番DH」で出場したレンジャーズ戦は4打数無安打2三振。
8月の2試合は8打数無安打と、まずはスロースタートとなった。

その一方で、この日の試合前には、右手親指にファウルを受けた影響で
回避していた本格的な投球練習を再開。
ブルペンでカーブなどの変化球を交え、22球を投げ込んだ。

試合後、マドン監督は7月26日以来、中8日の間隔で4日
(同5日午前9時5分開始予定)のレ軍戦で先発することを明かした。
同監督は、受賞した過去2カ月の活躍について、「昨年はタフな期間もあったが、
今年は体の状態もいい。投打にわたってすべてのことがつながっている」と、
投打両面での相乗効果を一因に挙げた。

心身ともに万全の状態では、メジャーで初めて経験する本格的な
「二刀流」のフルシーズン。
今後は、本格的な夏場を挟み、疲労が蓄積してくる残り2カ月が、
大谷にとって本当の正念場となりそうだ。

 

2021MLB オールスターゲーム 大谷選手フォトミント
二刀流での偉業を記念したフォトミント
オススメ度★★★★★(The Highland Mint !)

 

大好き!!MLB2-アメーバ版

すいません!16日分です!
一気に月末まで更新します!よろしくお願いします。

1990年7月31日

将来殿堂入りのテキサス・レンジャースの
ノーラン・ライアンがキャリア通算300勝を達成しました。
前回の挑戦では、マイルストン達成を失敗していた43歳のライアンは、
11-3でミルウォーキー・ブリューワーズを破りました。
ライアンは、ポール・モリター、ロビン・ヨーント、ゲーリー・シェフィールド、
デイブ・パーカーのラインアップに対して、7回2/3を1失点で抑えました。

ノーラン・ライアン

★プチトリビア

モリターが3319安打、ヨーントが3142安打、パーカーが2712安打、
シェフィールドは現DETのシェフィールドというそうそうたるメンバーを
抑えての300勝到達でした。

1959年7月30日

ウィリー・マッコビーは、印象的な大リーグ・デビューを
サンフランシスコ・ジャイアンツで行います。
若いスラッガーは、将来殿堂入りのフィラデルフィア・フィリーズの
ロビン・ロバーツから4打数4安打、2三塁打を記録します。
マッコビーは、ほんの52試合出場でしたが、最終的に
ナショナル・リーグ新人王を勝ち取ります。

ウィリー・マッコビー

★プチトリビア

「ストレッチ」のニックネームを持つマッコビー。
物静かな温厚な性格でSFでは、人気者でした。
通算本塁打521で、満塁本塁打18は、歴代2位の記録です。

1968年7月29日

ワシントン・セネタースのロン・ハンセンは、
単独のトリプル・プレーを完成させました。
41年ぶりで史上8人目になります。
走者1,2塁で、クリーブランドのジョー・アズキューの打球は
ハンセンの右側へ。
ハンセンは、ライナーをつかみ2塁を踏んで、デイブ・ネルソンを
封殺、ベースに滑り込んできたロシア・スナイダーにタッチして
完成させました。

ロン・ハンセン

★プチトリビア

ハンセンは、守備の上手い遊撃手で、最多捕殺4回、最多併殺3回。
1968年のオフにホワイトソックスからセネターズへ移籍したが、
この記録の3日後にホワイトソックスへ出戻りとなりました。

1994年7月28日

テキサス・レンジャースのケニー・ロジャースが、
カリフォルニア・エンジェルスに対してパーフェクト・ゲームを
達成します。
ベテラン左腕は、8奪三振をとり、近代野球史上11人目の
記録をボールパーク・アット・アーリントンで4-0で勝利します。

ケニー・ロジャース

★プチトリビア

ロジャースは、1982年ドラフト39位でレンジャース入り。
大リーグに昇格したのが89年。
92年までは、中継ぎ投手だった。
先発には93年に転向し、いきなり16勝し、転向2年目の快挙でした。
96年からは、NYY-OAK-NYM-TEX-MIN-TEXと渡り歩き、
06年は、DETでオールスターでも先発しました。
息の長い投手です。

1968年7月27日

デトロイト・タイガースのデニー・マクレインは、
ボルチモア・オリオールズを9-0でシャットアウトして
シーズン20勝目をあげます。
マクレインは、最終的には驚異の31勝をあげて、
現時点で最後の30勝投手であります。
アメリカン・リーグのサイヤング賞を勝ち取ります。

デニー・マクレイン

★プチトリビア

68年のマクレインは、31勝、勝率.838、28完投、336投球回の
4部門で1位となり、満票でMVPとサイヤングのダブル受賞でした。
しかも、翌69年も24勝と9完封が1位で2年連続のサイヤング賞に
輝きました。
が、70年からは、転落の一途をたどり、72年にわずか28歳で引退。
その後も、事業に失敗したり、コカインの密輸に関わり、収監もされました。
どんなときでも、自分を見失ってはいけないという見本ですね。(苦笑)

1948年7月26日

ベイブ・ルースが公の場に最後の姿を表します。
咽頭癌の前ヤンキースの偉大な選手は、「ベイブ・ルース
物語」の映画初日を訪れました。
3週間後、ルースは病気に負けて、53歳で亡くなります。

ベイブ・ルース

★プチトリビア

黄金期のヤンキースを支えたルースとゲーリック。
ルースの本塁打は、高い放物線を描いてスタンドインするが、
ゲーリックのそれは、鋭いライナーで突き刺さる、と形容されます。
ある時、それはそれは高いフライを打ち上げた。
なんとか内野手が取った時、ルースは3塁へ達していた、ほど
高く上がったらしい。
その高さがおよそ210フィート(約64m)といわれ、
アストロドームの天井の高さを決める ものさしとなったというのは有名な話です。

1966年7月25日

前ボストン・レッドソックスの偉大な打者、テッド・ウィリアムスと
伝説的監督のケーシー・ステンゲルは、栄誉殿堂入りします。
ウィリアムスは「大リーグでプレーすることが出来なかった
黒人リーグの選手にも殿堂入りを考えるべきだ」という
印象的なスピーチをしました。
5年後、殿堂は彼のスピーチを受け、サッチェル・ペイジを
殿堂入りに選びました。

テッド・ウィリアムス

★プチトリビア

黒人リーグの投手代表がペイジなら、
打者の代表はジョシュ・ギブソンでしょう。
”800本塁打を打った男”といわれ、LADで活躍した
ロイ・キャンパネラ(MVP3回)が「走攻守の全てで私以上。
飛距離はルース以上、確実性はテッド・ウィリアムス以上」
と言い切る、ギブソンという男を見てみたかった。
1972年に殿堂入りを果たしています。

1983年7月24日

カンザスシティ・ロイヤルズとニューヨーク・ヤンキースは、
ヤンキー・スタジアムで有名な「パインタール・ゲーム」をします。
ジョージ・ブレットがグース・ゴセージから2ラン・ホームランを
打ち、5-4とロイヤルズがリードした数分後、
主審のティム・マクレランドが、バットにパインタールを塗りすぎている
ということで、ブレットをルール・アウトの判定をします。
アメリカン・リーグ会長のリー・マクフェイルは、
後にこの決定を覆します。

パインタール・ゲーム

★プチトリビア

結局、4日後に「ホームランは有効、8月18日に試合再開」という
決定がマクフェイルよりくだされました。
パインタールを18インチ以上塗る事は違反であると、
1976年に加えられたが、違反はアウトであるということは
明記されていなかった。
元々、このルールはボールが汚れて、頻繁に交換をするのを
防ぐ目的で制定された為でした。

1962年7月23日

ジャッキー・ロビンソン、ボブ・フェラー、エド・ラウシュ、
伝説的監督のビル・マケクニーが栄誉殿堂入りします。
ロビンソンは、20世紀の最初の黒人大リーガーであり、
また、クーパースタウンに選ばれた最初のアフリカ系
アメリカ人でもあります。

ジャッキー・ロビンソン

★プチトリビア

ロビンソンは知らない人はいないと思いますので
ボブ・フェラーは、「火の玉」といわれたファーストボールで
ノーヒッター3回、通算266勝、2581奪三振。
エド・ラウシュは、創世記の大リーグで通算2376安打、
通算打率.323、首位打者2回の安打製造機。
ビル・マケクニーは、25年間の監督生活で1896勝
勝率.524、世界一2度、リーグ優勝4回の名将です。

1989年7月22日

ナショナル・ベースボール・ホール・オブ・フェイムと
博物館は、ニューヨーク市クーパースタウンで50周年記念
と加盟式典を行います。
ジョニー・ベンチ、カール・ヤストレムスキー、レッド・シェーンディーンスト、
審判のアル・バーリックが殿堂図書館の前で加盟スピーチを行いました。

ジョニー・ベンチ

★プチトリビア

ホール・オブ・フェイムが最初に決められたのは、1936年。
第一回のメンバーには、タイ・カッブ、ウォルター・ジョンソン、
クリスティー・マシューソン、ベイブ・ルース、ホーナス・ワグナーの
5人が選ばれました。

1969年7月21日

大リーグは、オールスター・ゲームで
「ナショナル・パスタイム」の100周年を記念の祝宴を行います。
祝宴の行事は、オール・タイム・チームの予告と「偉大なオール・
タイム・プレーヤー」にベイブ・ルースを、「偉大な現役プレーヤー」
にジョー・ディマジオを選出した事を発表しました。

ベイブ・ルース

★プチトリビア

オールセンチュリー・チームが発表されて、ものすごいメンバーが
名を連ねています。

1916年7月20日

ニューヨーク・ジャイアンツは、将来殿堂入りの
クリスティー・マシューソンを5人の一人として
シンシナチ・レッズにトレードします。
マシューソンは、ジャイアンツで372勝をあげ、
あと一つの勝利を、長い間のライバルだった
スリー・フィンガー・ブラウンと対決し、記録して、
レッズの監督になるために引退しました。

クリスティー・マシューソン

★プチトリビア

17年のキャリアで積み上げた勝利が373。
フェイド・アウエイと呼ばれたスクリュー・ボールで
2507奪三振、最多奪三振5回、最多勝4回、
最優秀防御率5回という数々の勲章を手に入れたが、
彼もまた、戦争の犠牲となり45歳で早世しました。

1910年7月19日

クリーブランド・スパイダースのサイ・ヤングは、
ワシントン・ナショナルズを5-4で破り、キャリア通算
500勝を達成します。
ヤングは、ここから記録を伸ばし、通算511勝で引退しました。

サイ・ヤング

★プチトリビア

本名は、デントン・トゥルー・ヤング。
サイクロン(旋風)のようなボールを投げるところから
「サイ」がニックネームについたといわれていますが、
「田舎者」からついたという説もあります。
44歳まで投げつづけたヤングは、ナ・リーグで290勝、
ア・リーグで221勝と両リーグで唯一200勝以上を記録、
さらに、19世紀に286勝、20世紀に225勝と2世紀に渡って
200勝以上したのもヤング唯一人です。(すげ~、すげ~)

1999年7月18日

ニューヨーク・ヤンキースのデイビット・コーンは、
大リーグ史上16人目、現代史上14人目のパーフェクト・
ゲームを達成しました。
ベテラン右腕は、素晴らしいコントロールを見せ付けて、
6-0でモントリオール・エクスポスを押さえ込みます。
デレク・ジーターとリッキー・レディーは、それぞれ2ラン・
ホームランを放ち、コーンをサポートしました。

デイビット・コーン

★プチトリビア

現代史上とは、modern era(モダンエリア)で表現し、
1900年以降のことを指します。
コーンは1981年にドラフト3位でKC入り、NYM-TOR-
KC-TOR-NYY-BOSーNYMと渡り歩き、
5度のワールド・チャンピオンに輝く強運と通算奪三振2668の
右腕は、「コーン・ヘッド」でも有名です。

1941年7月17日

ジョー・ディマジオの連続試合安打は、56試合で
クリーブランド・インディアンスによって止められます。
「ヤンキー・クリッパー」は、三塁手ケン・ケルトナーの
2度にわたる超美技で安打を阻止されました。
しかし、強力な中堅手の助けなしで、ヤンキースは
6-5で勝利を収めました。

ケン・ケルトナー

★プチトリビア

第一打席の三塁線の強烈なゴロを、あらかじめ三塁線よりに
深く守っていたケルトナーが逆シングルでさばき、間一髪のアウト。
第三打席の強烈な三塁への打球もケルトナーがさばき、記録は止まった。
だが、この次の日、5月18日から8月2日まで16試合連続安打しているので
ケルトナーの美技がなければ、73試合連続安打というとてつもない記録に
なるところでした。

1941年7月16日

ニューヨーク・ヤンキースの外野手、ジョー・ディマジオが
4打数3安打して、自身の連続安打を56試合に伸ばします。
この56試合中、223打数91安打で打率.408を記録し、
この日はミシュパル・スタジアムでインディアンスを10-3で
破るのを助けました。

ジョー・ディマジオ

★プチトリビア

この記録が始まったのが、5月15日のシカゴ・ホワイトソックス戦。
場所は地元ヤンキー・スタジアム。
シーズンオフに契約問題がこじれた為、スプリング・トレーニングに
入るのが遅れ、調整不足で開幕から今ひとつの成績だった。
この日の安打は、当たり損ねの安打だったというから、
世の中、何が起こるか分からないということですかね。
(だって、翌日に記録がストップした時は、
相手三塁手ケン・ケルトナーの超美技が2本出たわけですから。。。)

 

大谷選手の実使用ボールの一部を使用したフォトフレーム
目指せ!60本塁打!
オススメ度★★★★★ (Fanatics Authentic!)

 

大好き!!MLB2-アメーバ版

すいません!7日分です!

1973年7月15日

カリフォルニア・エンジェルスが、6-0でデトロイト・
タイガースを破った時、ノーラン・ライアンは
シーズン2度目のノーヒット・ゲームを達成します。
6回に、タイガースのスラッガー、ノーム・キャッシュが
バットの代わりにピアノの脚を持って打席に入ろうとします。
主審に普通のバットに代えるように要求され、
結局、最初の2打席と同じく、三振に倒れました。

ノーラン・ライアン

★プチトリビア

キャッシュは、通算377本塁打、1103打点のタイガースの主砲。
その打者が、失笑をかうようなことを仕出かさなければならないほど
ライアンのボールが凄まじかった、ということでしょう。
このときのキャッシュのいいわけが、「どうせ、打てないんだから、
いいじゃないか」というものらしいです。(笑)

1967年7月14日

ヒューストン・アストロズの内野手、エディー・マシューズは
キャリア通算500本目の本塁打を放ちます。
前ミルウォーキー、アトランタ・ブレーブスの伝説は、
将来、殿堂入りのホワン・マリシャルから放ち、
キャンドルスティック・パークでアストロズがサンフランシスコ・
ジャイアンツに8-6で勝利するのを助けます。

エディー・マシューズ

★プチトリビア

マシューズがデビューした時、ブレーブスはボストンにあり、
以降、ミルウォーキー、アトランタと3つの本拠地でプレーした
唯一の選手です。
このマシューズと13年間コンビで強打を放ったのが、
ハンク・アーロンで、ふたりで863本塁打を記録しています。
これは、あのルースとゲーリックのコンビをも凌ぐ大記録です。

1971年7月13日

オークランド・アスレチッスのレジー・ジャクソンが、
オールスター史上最も印象的な本塁打の一つを放ちます。
3回にピッツバーグのドク・エリスから打った本塁打は、
タイガー・スタジアムの屋根の照明タワーにぶちあてます。
推定520フィート(約158m)の驚弾は、アメリカン・リーグを
6-4の勝利に導きました。

レジー・ジャクソン

★プチトリビア

ミスター・オクトバーの異名の通り、最も印象的なのは
プレーオフ・シーズンですが、オールスターにも
21年のキャリアで14回出場しています。
キャリア歴代1位の2597三振のジャクソンも
オールスターでは三振記録がありません。

1979年7月12日

シカゴ・ホワイトソックスは、デトロイト・タイガースとの
ダブルヘッダーで98セントの入場料で「ディスコ・デモリション
・ナイト」を開催します。
ディスコ・レコードは試合で壊され、ファンがフィールドを急襲
したとき、混雑と暴力を起こします。
プレーの続行が不可能となり、ホワイトソックスは第二試合を
失う事になりました。

ディスコ・デモリション・ナイト

★プチトリビア

この企画の発案者は、天才プロモーターといわれた
名物オーナーのビル・ベック。
生きたブタをプレゼントしたり、球場結婚式を行ったり、
インディアンスを買収した折には、ラリー・ドビーを獲得
ア・リーグ初の黒人選手としたり、伝説のサッチェル・ペイジと
契約したのも彼でした。

1914年7月11日

将来、殿堂入りのベイブ・ルースがボストン・レッドソックスで
デビューします。-投手として。
ハード・スローイング左腕に勝敗は付かず、最初の打席では
三振を喫し、7回に代打を出されて交代しました。
この試合、レッドソックスは、4-3で勝利しました。

ベイブ・ルース

★プチトリビア

打者として通算本塁打714本は、超有名ですが、
投手としてキャリアは10年。
163試合に登板して、94勝46敗、17完封、1221.1回で488奪三振
防御率2.28という成績を残しました。

1934年7月10日

オールスター・ゲーム史上で最も印象的な出来事がありました。
ニューヨーク・ジャイアンツのカール・ハッベルがベイブ・ルース、
ルー・ゲーリック、ジミー・フォックス、アル・シモンズ、そして
ジョー・クローニン(全員、将来殿堂入り)を連続三振に打ち取ります。
しかし、彼のこのパフォーマンスにも関わらず、9-7でアメリカン・
リーグが勝利し、ハッベルには勝敗はつきませんでした。

カール・ハッベル

★プチトリビア

「キング・カール」の武器は、左腕からのスクリュー・ボール。
この1934年のアメリカン・リーグの先発全員が後に殿堂入りの
超豪華ラインアップでした。
1回にいきなり四球と安打で無死1,3塁の大ピンチを迎えてから
ルース以下を3者連続三振。
2回も2者連続三振で5連続。3回も1奪三振で、3回を無失点に抑えました。

1946年7月9日

ボストン・レッドソックスのスター、テッド・ウィリアムスは
オールスター・ゲーム史上において、1試合での偉大な
記録を持っています。
「素晴らしきスプリンター」は、ホームタウンのファンの前で、
4安打、4得点、5打点を記録しました。
そして、彼は2本の本塁打も放ちました。

テッド・ウィリアムス

★プチトリビア

この時の1試合4安打、4得点、5打点、2本塁打は
歴代1位の記録です。
この他に、ウィリアムスのオールスターでの本塁打といえば、
1941年のサヨナラ3ランホームランが有名です。

 

ハンクアーロンに捧ぐ!大谷翔平選手の44番ユニフォーム
MLBオールスター2021 ホームランダービーでも着用した
故ハンクアーロン氏の背番号44バージョンのレプリカユニフォーム
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すいません!6日分です!

1912年7月8日

シカゴ・カブスが7-2でニューヨーク・ジャイアンツの
ルーブ・マークォードを破った時、開幕からの連勝記録が
19で終わります。
マークォードは、1912年シーズンは26勝をあげ、
この記録は今でも歴代1位の記録です。

ルーブ・マークォード

★プチトリビア

フォークボールやチェンジアップを武器としたレフティ。
1908年に10球団の争奪戦で、破格の1万1千ドルで
ニューヨーク・ジャイアンツへ入団。
11年24勝、12年が26勝、13年も23勝して、
18年のキャリアで11回の2ケタ勝利をあげました。
1971年に殿堂入りしています。

1948年7月7日

クリーブランド・インディアンスは、大リーグ史上最年長新人と
なる42歳の黒人リーグの伝説の男、サッチェル・ペイジと契約します。
多くの人々がこの契約は間違いだと批判されましたが、
ペイジは、6勝1敗、防御率2.48という成績で周りを黙らせます。
1971年に栄誉殿堂入りを果たしました。

サッチェル・ペイジ

★プチトリビア

ペイジには、105戦104勝だとか、31勝4敗で21連勝とか
40イニングで奪三振60とか、様々な伝説の記録がありますが、
黒人として第1号に大リーグ入りしたのが、自分ではなく
若きロビンソンだったことにショックを受けていたといわれています。

事実、黒いベイブ・ルースといわれたジョシュ・ギブソンは、
(黒人側から言うとルースが白いギブソンらしいが)
大リーグからの誘いがないことで自暴自棄になり、若死にしたといわれています。

1933年7月6日

第一回オールスター・ゲームがシカゴ、コミスキー・パークで
開催されます。
両軍のロースターには、将来殿堂入りのルー・ゲーリック、
ジミー・フォックス、レフティー・グローブ、カール・ハッベル、
ポール・ウェイナーらが揃いました。
ベイブ・ルースの2ラン・ホームランでアメリカン・リーグが
4-2で勝利しました。

オールスター・ゲーム

★プチトリビア

そもそも、シカゴ・トリビューン社の運動部長アーチ・ウォードが
「ハッベルさんが投げて、ルースさんが打つのを見たい」
という少年からの投書がきっかけで始まったものです。
オールスターのMVPトロフィーには、アーチ・ウォード賞と
入っています。

1947年7月5日

クリーブランド・インディアンスのラリー・ドビーは、
アメリカン・リーグで初のアフリカ系アメリカ人としてプレーします。
インディアンス、シカゴ・ホワイトソックス、デトロイト・タイガースで
13年間のキャリアでオールスターに7回出場し、2回の本塁打王に
輝きました。
ドビーは、1998年に殿堂入りを果たしました。

ラリー・ドビー

★プチトリビア

他に打点王と得点王にも輝き、1959年に引退。
62年には、日本の中日ドラゴンズに入団しました。
が、往年の力を出せず、1年で帰国。
その後、1978年にはホワイトソックスで
黒人として2人目の監督として就任しました。

1939年7月4日

ニューヨーク・ヤンキースは、ルー・ゲーリックの「4」を
永久欠番にする式典をヤンキー・スタジアムで行います。
ベースボール史上最も有名な出来事のひとつであり、
「アイアン・ホース」は、「私は地球上で最も幸せな男です」
と62,000人のファンの前で話します。
2年後、ゲーリックは自分の名前のついた病気に負けました。

ルー・ゲーリック

★プチトリビア

ゲーリックの合計出場試合が2164試合。連続試合出場が2130試合。
17年間ほとんど休まずにワーク・ホースぶりを見せつけました。
通算打率.340、493本塁打、2721安打で首位打者、打点王
本塁打王、MVPなど数々のタイトルを獲得し、わずか37歳で亡くなりました。
オール・センチュリー・チームには、盟友ルースを上回る得票で選出されました。
合掌。

1966年7月3日

アトランタ・ブレーブスのトニー・クロニンガーは、
1試合で2本の満塁本塁打したナショナル・リーグ初の投手になり、
彼の1試合9打点は、投手の1試合最多打点となります。
打つだけでなくマウンド上でも彼のパフォーマンスによって
ブレーブスは、サンフランコ・ジャイアンツを17-3で粉砕しました。

トニー・クロニンガー

 

2021オールスターゲームは、コロラド・ロッキーズの本拠地
クアーズフィールドで開催!
オールスターゲームのトレーニングパッチ付きLP 59FIFTYキャップです。
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