欧米では禅に「二人の鈴木」がいると

いわれています

一人は鈴木大拙、もう一人は鈴木俊隆です

鈴木大拙は、臨済宗円覚寺の住職をしながら

20世紀初頭、禅を欧米に紹介しました

1960年代以降のカウンター・カルチャー

の只中で、鈴木俊隆により多くの若者たちに

影響を与えながら実践的な坐禅を紹介しました






「禅マインド ビギナーズ・マインド」(題)

鈴木俊隆著 松永太郎訳(サンガ新書)


本の序文で、マサチューセッツ工科大学の

ヒューストン・スミス教授は次のように

述べています

「鈴木大拙の禅は劇的である。鈴木俊隆の

禅は日常的である。大拙の場合、悟りが

焦点となっていた。そして大拙の書くものが

あれほど人をひきつけたのは、大部分、

その非ー日常的な状態に対して魅惑された

ためであった。鈴木俊隆の場合、悟り、

あるいは、ほとんどその同義語といってもいい

見性(けんしょう)という言葉はほとんど

出てこない」とコメントしています

禅というと「悟り」と結びがちですが

鈴木俊隆は日常的なものとして「悟り」を

あえて使わなかったのでしょう

その鈴木老師が亡くなる前にスミス氏は

老師の奥さんに「疑問」を尋ねる機会があった

老師の著書に「悟り」という言葉が出てこない

のはどうしてなのか

奥さんは、いたずらっぽくスミス氏の耳元で

「悟っていないからよ」と呟いたようです

鎌倉の円覚寺には、僕も10代から20代に

かけて坐禅をしました

いまだに「悟っていない」ですが…

「悟る」って、難しいことです

「我」を捨てると随分「楽」になりますが…