サンユッタ・ニカーヤ
原始仏教の教えが記録された書物である
悪魔との対話
今、必要なのはこれである
自己との対話
悪魔と言おうが
悪神と言おうが
悪心と言おうが
変わりない
自らにあるそれを見つめ直す
今、俺に必要なのはそれである
木刀素振り
かつては両手で持ち
上手く体幹を使えた時にだけ聴こえた
ヒュッ
という風切り音が
今は片手によっても聴ける事がある
ブンブン鳴るのは当たり前の事で殊更に書く必要はない
触れるか触れないかと云う程の持ち方
津波に押されるかのようにして
刀と腕は伴に振られる
津波の意識に区別は無い
刀であろうと
身体であろうと同じ事だ
釈尊が托鉢に赴いたある日
その時、村では祭りが行われていて釈尊は食べ物を得る事が出来なかった
その帰り道
悪魔が来たりて言ったと云う
今、村に引き返せば食べ物を得られるであろう
おそらくは今なら祭りも終わり、村人も家に戻っているという意味だと思われるが
釈尊はきっぱりとその誘惑を退けたと云う
さて
これのどこが悪い事なのか
食べ物を得る為に道を引き返すだけである
これのどこが
悪心の誘惑なのか
合気原理その一
ただ接触部位に力みを発生させないままに動く
というだけの事であるが
ただそう考えてやるだけでは難しい
津波の意識は合気原理その一をやり易くする為に閃いた方便である
つまり、今の俺用に開発された意識の持ち方で、他の人にはわからないかもしれない
同じような感性を持ち
同じような意識で
同じ位鍛錬や稽古を行っている人ならわかるかもしれないが
はっきりした事は言えない
大自然の力をイメージする事によって身体を動かし
心は放下している
合気と呼ばれる技術の初歩と捉えている
身体を1つのものとして使う身体操作
それが何故脱力なのか
力みは身体のその部位を孤立させてしまうからである
では全身を力ませれば孤立しないと考えたとしよう
さりとて全身を万遍なく力ませると今度は動けない
結論としての脱力
理屈で言えばそういう事だ
サンユッタ・ニカーヤ
これは
心との対話の物語
善き導きへと促す心の働き
悪しき所へ落とそうとする心の働き
もっと簡単に
自問自答の記録
と言ってもよいと思う
当時の托鉢は1日1回であった
これは誰が決め
誰が守るのか
と、言う事
自分で自分の為に決めた約束
これを簡単に破る事が良くないのだ
食べ物は得られなかったが
1日1回の托鉢には既に赴いた
欲に駆られて再び赴く事はない
欲には際限がないからだ
欲は無限に不満を生み続ける
心の内を見直せばわかるでしょう?
無舞
力みを阻害する為の力が胸や胆に生まれているように感じられる
合気道も力を使う
力みを治める
自制の力だ
そんな事を想う
身体は伸び伸びと使う
大変な仕事に一生懸命取り組み
充実した気分でやり終えて
うーん
と伸びを行う
あの感覚だ
全身に
それを
これは技術ではない
単純に
心の在り方である
腰に
背中に
内股に
肩に
胸に
首に
腕に
掌に
ふくらはぎに
土踏まずに
手足の指先に
部位にとらわれて全身の重さのバランスを失念しないように
時に
風に舞う花びらのような
軽やかなイメージ
時に
全てを飲み込む津波のような
迫力を以って
さぁ再び
心の在り方を問い直そう
時は今
場所は此処
変化は常に訪れる
それが自然なのだ
雲の大河に星が煌めく
雲に霞む月が微妙な光の奏でを放つ寒厳の夜
その寒さをそっと受け入れる
苦しみも、掛け替えの無い自分なのだと思う
それもまた
伸び伸びと受け入れていかなければならないのだ
何故か
そんな言葉が生まれていた