運動前の思考作用 | 清静放下

清静放下

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稽古場に行く途中で

言葉が形を成す事がよくある


これでも随分と悩んでいるのだ


合気道の道場に行ってはいるけれど

本当に上手くなっているのか


それが良くわからない


言う通りの形になっていれば

上手いと言われる事もあるけれど

どうもしっくり来ないのだ



そこに明確な何かが欲しい



対峙する相手に本気の自分を想定して

崩せるかと自らに問えば

これでは腕を動かす事すら難しいであろう

と、答えざるを得ない


俺は技を習いに来ているのに

何故この動きで崩れるのか

この動きでどうやって崩すのか


そういう説明を受けた事がない

そもそも

崩しと言う単語すら聞かない



相手の腕を伸ばしてそのまま引き崩すとか

柔道で言う所の八方の崩しとか

立ち方や

体さばきなんかは

全部自分で調べて試しているのだ



昔、フルコン空手を三、四年やっていたし

離れてからも運動は続けて来たが

合気道は合気道

新たな気持ちでやっている

自己鍛錬もほぼ毎日、家でやっているが

そんな自分が馬鹿みたく思える時がある


やはり、心の何処かで比べているのだろう


では、とっとと辞めてしまえばいいではないか

原理と構造に基づいた理合を教えてくれる所へ行きたまえ


一方ではそのように思う


しかし

合気道そのものは優れているのだ

それは間違いない

そして

現実的に通う事を考えるなら

仕事の休みと稽古日の合致する

近場が適している


通えないなら最初から入会する意味はないのだ

そんなジレンマを抱えながら道場に行っている

しかしまぁ



行けば行ったで楽しい

楽しみにしている自分がいる



しかし


原理に関する疑問は尽きない


おそらくは、俺が欲張り過ぎているのだろう

一足飛びに上手くなろうとしている所がある

常に考え、道場が終わっても自己鍛錬はやっているが

そう簡単なものでもないだろう


他の人はどうあれ

俺は俺でやっていかなければならない

結局のところ

自分の中にしか無いのだ



俺は俺に適した取り組み方でやるしか無い


最近

基本動作を見直した

中心軸とは何か?

そもそも重心とは何か?

武道の本なんかによく書かれているけどイマイチよくわからない


拇指球に重心を・・・


なんてあるから体重をかけた所が重心なのかと思っていたが

そうではない

と最近思うようになった

要するに


重さの全体的なバランスの事を言っているのではないか


だから

引き崩せば相手の前足に体重はかかっているけど

重心は前足と言う訳でもない


要は


横の崩しなら肩

前後なら背中や首ではないかと思う


ただ、前後についてはまだ確信は持てない

基本の四方投げで相手の背骨から真後ろ方向にやると、そうでない時よりは崩して投げられているような感じが多少あるのでそう思うだけだ



入身投げの投げの際は横に崩している

最近そういうやり方を見付けた

横に崩せば少なくとも片方の足は動きを封じられる



そういうのも上手くいかなかった経験があったから研究してきた



上手く行くのが当たり前なんて言うのは

現実的ではない



ゆっくり行う入身投げの投げ動作の時に

後ろに歩いて行ってくれた人がいなかったら

原理の発見は無かった

俺はまだ始めたばかりの白帯だが



原理は帯の色など区別しない

人間と云う構造を持つ以上

原理は平等に効果を発揮する



俺が知りたいのはそれなのだ




合気会で言う所の転回

養館で言う所の体の変更を参考に

最近これを1日に500やっている

毎日のメニューに追加しようか


しかしそうやってどんどん追加していくと、また睡眠時間を削ってしまう


以前、それで失敗したのだから慎重に考えなければならない


数は減らしても良いかもしれない

毎日の木刀素振り500でも2・3歩毎に転換している



武道はあくまで、趣味なのだ



生活に溶け込んではいるけれど、実際に生活を支えているのは仕事であって、それを優先しなければならない




それにしても

原始仏教に興味を持っていて良かった

動禅と云う観点

これが無かったら

独りで毎日基礎鍛錬などとても出来なかっただろう

さぁ

心を込めて、いこう

正しい姿勢

股関節の動き

土踏まずの働き

今、この瞬間

触れるとはどういう事か?

触れ動かす木刀の中に真実を探す



生まれて初めて観る景色の如く



生まれて初めて触れる大切なものの如く



生まれて初めて生じた心の働きの如く



赤子のように

とは、このような意味であろうか

そうかもしれないし

そうでないかもしれない

そんなものは捨ててしまおう



どちらであっても問題はない











合気道は和合を尊ぶ

武道とは強さを得る為の道であると言うのに

強さと勝負を結ぶ事をしない

その矛盾

俺なりに解釈するなら


きっと勝負と言う欲心は毒を生むからであろう


多少の毒なら免疫を向上させるかもしれないが

強い毒は幸せを奪うのだ

別に武道に限った話でもない

酒や女でも

ギャンブルでも

金儲けでも

何でも一緒


だと思う

酒や女に溺れた事は無いし、ギャンブルもやらない上に、お金持ちでもないから確かな事は言えない


ただそう思うだけだ

斎藤一人さんのようなお金持ちは、あまりいないと考える


武道だって同じ事


強さだけを過剰に追い求めた結果

次第に人格を犠牲にしていくようになるかも知れない



実戦主義ってそういう事でしょう?



合気道の技は本来、後頭部や脳天を地面に叩き落とす動き

それは常に出来た方が強いか弱いかで言えば、強い

躊躇なく出来る人の方が

強いか弱いかで言えば確かに、強い

突き詰めていけば、強さとはそういう道を通る



けど、そんなものは必要ないでしょう?



少なくとも俺はいらない

危険な技を平気で使うような人間を目指している訳じゃない

しかし


武道は実戦を想定して生まれたもので


実戦とは殺されても文句の言えない戦いなのだ


だから塩田剛三と言う偉大な合気道家は




実戦の為の合気道は私が最後でいいと、言ったのではありませんか?




平和な時代に生きる俺は、実戦と言う言葉の重みを知らないのだ



かと言って

弱くて良い

と、言う訳でもない


だって武道だもの


この点に関してもバランスが大事と言う事かもしれない

そういうのもある意味、中道と言えるのかも知れない


もし


武道をお金儲けと考えてしまったならば

和合など遥か遠くに逃げて行く

宗教だってそう

だから釈尊も、集いは作ってもお金なんか受け取らず

善意の施しに感謝して一生を過ごした


まぁ当時のインド社会だから出来たのであって現代の日本では適切ではないけれど


仏教だってお金儲けと考えてしまえば、それはもう単なるビジネス


そんな訳で俺は仏教と聞けば何でも好きとは言わない


あくまで釈尊を尊敬に値する凄い人物だと認めているだけで

その教えにフィットするものを感じるから、手探りながらもやってみているだけだ




そんな訳で

俺は仏教が好きであり

また

合気道は優れた武道であると思うし、その精神にも好感を持っている

そこで

何か共通性のある言葉を見出したい

例えば

無垢

例えば

仏性

そういったものが

いつか

心と身体の動きの中に

心と身体の関係性の中に

宿るだろうか

そんな事を考える



さぁ


これも捨ててしまおう


今、この瞬間

大切なのはそれだけだ


そのような思考がこの心と身体を一時乱し

消えて行った




霧に煙っていた道も

今は晴れている

空は真綿のような厚い雲に覆われていたが

それが温もりを与えたかのように

冬の寒さは緩んでいた