1986年から | 山根大助オフィシャルブログ「山根大助のイタリアンな日々」Powered by Ameba

1986年から

1986年9月にポンテベッキオはオープンした。大阪に現存する最も古い橋(本町橋)の袂にあったのでそれにちなんでPONTE VECCHIO(古い橋)と名付けた。その頃の1カット。
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神戸で勤めていた頃の海水浴大会の1カット。僕の腹筋が割れていた頃(かなり貴重)。目隠ししてるほうじゃないよ。分かるよね!?
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イタリア時代の1カット。ジェノバかポルトフィーノ辺り。後にちょっとジャニーズ系といわれてた頃。決して僕が言ったわけではない。もう一度言うが、決して僕が言ったわけではない。
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オープンした頃は、僕の実力が低かったことと円高不景気の時代で、最初の2年くらいは経営がとても苦しかった。既存のイタリア料理と少し違う部分もあったので、「何料理?」とよく言われた。3年目くらいで第一次イタリア料理ブームがきて、ちょっとやれるようになった。その後バブルがやってきて、90年の途中までとても忙しかった。だけど、材料は高いし、スタッフはいないし、工事屋はいないし(いても高い)、まさにバタバタと踊っただけで、そんなに儲かりはしなかった。でも、たくさんの食材に出会えたし、ワインがたくさん売れるようになったことで、この時期はすごく勉強ができた。おそらくバブル前とバブル後で料理のクオリティ、ワインを取り巻く環境、建築のクオリティとデザイン等全く基準が変わった。ああいう時は一緒になって色んな経験をしたもの勝ちかな、と今思う。儲けられなかったかわり、潰れもしなかった。


流石にその後2年くらいお客さんの数は戻らなかったが、その内バブル期を上回るようになった。


それから天満橋に移転した。96年だった。本町橋で狭かった厨房や十分快適とは言えない客席、内装のクオリティの低さを全部一新したかった。当時としては目一杯お金もかけた。店が大きくなって、オペレーションがうまく回らなかった。スタッフはどんどん辞めたし、結構きつかった。その頃植田総支配人と一緒に仕事するようになった。しばらく苦しい時期が続いたが、良いスタッフが育ち、店にスタッフがひしめいていた。それに植田は店をもっと大きくして、成長していくことを望んでいた。


そこで西梅田のModoをオープンした。2000年だった。初めての多店経営、しかも本店よりもはるかに規模の大きな店。大繁盛したが、内情はスタッフの問題を含め大変だった。


その後Mensa、Sudとオープンした。どの店もかなり当たった!が経済的にはそう楽というわけでもなかった。スタッフや多くの人達の助けで何とか切り盛りできた。


天満橋の本店に満足できなくて、北浜に移転した。実はこの前に天満橋店を改装している。Modoが立派になりすぎて、本店が役割を果たせなくなった為だ。それとやはりまだまだ理想には程遠かったので、全てにおいて“これでどうや!”という店にステップアップしたかった。


結局理想に近い店を造るのに20年くらいかかった。


僕の構想では本店をフラッグシップとして、ポンテベッキオでやりたいことを妥協無くお見せし、体験してもらえるある種のショウルームとして、スタッフにとってはスキールを築くための、あるいは新しい商品開発の場として存在させる。他の形態は本店から派生したメニューやサービスを色々なセグメントに向けて提供していこうとしている。4軒、5軒に分かれているが、実はすごく大きな一店舗が色々な部屋に分かれている、という感じだと思っている。


U:はレストランじゃない店をやりたかったし、Sudは気楽に陽気に食べてもらえる店をやりたかった。それとピッツァの窯を入れてみたかった。


イタリア料理屋を長年やってて、本物のピッツァをやったことがないのは、片手落ちだと思ったし、第一面白そうだった。やってみたいスタッフも沢山いるはずだと思った。


考えてみれば、約24年の間に店を取り巻く環境はどんどん変わった。ライバルは出現しては消え、その都度より時代に合った店が出てきて、僕らをあたかも古くなったように見せようとする。ポンテベッキオは常に基本的に変わらず、でもより良くより最適にステップアップを繰り返してきた、と自負している。今の不況とお客様のレストラン離れは、大変厳しい試練だ。今まで幾度と無くピンチが訪れ(チャンスもいっぱいあったけど)、それをしのいで来たが今回が一番厳しい試練かもしれないと思う。それと僕にとって、今までは自分や店に足りない部分を補い、理想に近付けることがすなわち進歩だった。だけどある程度そこに追い付いた後、何をすればいいのかを見つけ、それをビジネスに結びつけることが難しい事だとひしひしと感じている。

来年に向けて新たな事業計画が幾つかあるが、仲間と一緒にそれを形にして行きたいと強く思っている。