重松清氏が書いた、阿久悠先生について書いた『星を作った男』(講談社)2009年にて尾崎紀世彦さんのインタビューがあり、恐縮ですが重松先生の言葉を抜いて書き出します。

「歌を真っ白なままお客さんに届けたいんですよ。僕の色をつけて歌うんじゃなくて、真っ白なまま届けて、色はお客さんにつけてもらうという感じで。(『また逢う日まで』について。尾崎さんの歌声について話が及ぶ)だからよけい、歌詞の解釈だのなんだのっていう俺の色はつけなくないんですよ。『また逢う日まで』は、あれだけ売れたわけだから、俺にとっては魔物のような存在なんですよ。四十年近く歌っていても、いまだにあの歌を『わかった!』とは言えない。でも、それでいいんじゃないですか?俺がどう思うかじゃなくて、聴いてくれる人がどう思うかが問題なんですよ。俺はメッセンジャーなんだから」

 何故楽譜が読めて、ギターも弾けた尾崎さんが曲を書かなかったのか。その一端を垣間見た貴重な言葉でした。
 次の尾崎さんイベントや書籍に向けて走り出していますが、もっと深掘りします。
#尾崎紀世彦



三島由紀夫生誕100年で私が沈黙しているのには理由があります。
 色々な人が三島さんを予言者だと言う。その代表的な作品に1970年(昭和45年)、『サンケイ新聞』(夕刊)7月7日号に掲載された「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」があります。引用します。

「二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
— 三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」」

 このエッセイや『英霊の聲』を引用して、「三島さんは未来の日本を言い当てていた!」と感心している方々がいらっしゃる。三島さんは未来を予見していたが、それを食い止めるべく、作品として遺したわけで、そうなって欲しいとは考えていないと推察します。三島さんが書いた言葉は今も解決していないわけで、こういう日本にした一端は小さいが私にもある。生誕100年はメモリアルな事柄かもしれないが、あくまで通過点でしかない。だからこそ食い止める方策を模索すべきだ。三島さんの言葉が現在の日本に当てはまってしまったのは慚愧の念に堪えない。

後ほどきちんと形にしますが、三島由紀夫は森田必勝や、その他2人の楯の会会員を巻き込まずに1人で決起を立案し、1人で切り込み行動を完結させるべきであったと思う。三島文学は「個」が主体となり、『剣』の国分次郎の様に1人で考え、カタストロフまで終結させる潔さがあった。三島由紀夫の年齢を超えて49歳になろうとしているが、45歳になり私が実感したのは、この年齢になると若い、血気盛んな人物の行動を諌める立場になるという社会的立場である。社会的立場という言葉は凡人が使う言葉だが、三島由紀夫個人で死まで完結すれば、私の心の蟠りも消えたはずである。しかし、森田必勝の死を無駄にしてはならない。他の2人が裁判で訴えた事実を尊重せねばならない。そこに私なりのジレンマを感じてまた、三島由紀夫について複雑な感情が入り乱れるのである。