東京物語の主人公は紀子さん(原節子)ですが、

紀子さんのセリフが最も長く、そして力が込められている箇所が

義理の母とみさんの葬儀が終わり、尾道を離れることを

義理の父、平山周吉さんに伝える場面です。

 

ここで周吉さんが、亡き妻、とみさんの腕時計を紀子さんに

手渡しますが、この時計は、とみさんが若いときから

ずっと大切にしていた、ということからも、

まさに形見として紀子さんに譲られるのです。

 

形見を譲られる紀子さんというシーンからも、

ここが大事な場面だということがわかります。

 

さて、この重要なシーンを導くシーンが冒頭のシーンなのですが

それまでクールな紀子さんが、

感情的に周吉さんに強く訴えかけるのです。

 

したがって、セリフも長く、力が込められています。

それまで紀子さんはあまり自分の感情を言葉にしませんでした。

 

「はい」と「いいえ」しかセリフが与えられていないような

女性でしたので、もし紀子さんが原節子という大女優と

知らなかったなら、このシーンまで紀子さんがこの映画の

主役と気が付かない人もいると思います。

実は私もその一人で、ここで紀子さんが自分の感情を

しゃべることに驚きました。

 

だから、ここはとても印象に残るんですね。

見ているほうはドキッとします。

つまり小津監督は明らかに、

ここにそれと分かる山を持ってきました。

 

紀子さんは「私ずるいんです」と言います。

周吉さんは「ずるうはない」と言って

紀子さんの考えを否定するんですが、

しかし、ここは紀子さんは頑として引かないんですね。

 

しかししかし、さすがは周吉さんですね。

見事な返しでここをまとめます。

「やっぱりあんたはええひとじゃよ、正直で」

このシーンは笠智衆さんしかあり得ないという気がします。

 

さて、周吉さんは形見を紀子さんに手渡した後、

次のように語ります。

 

「妙なもんじゃ、自分が育てた子供より、

いわば他人のあんたのほうが、

よっぽどわしらにようしてくれた。

いや~、ありがとう。」

 

この最後に近い場面で、この映画のメッセージが

はっきりと示されます。

 

このセリフがなかったらこの映画の輪郭がよくわからないので

本当にこのセリフは大事だと思います。

 

周吉さんは最後に、ありがとうと言っています。

紀子さんに感謝しています。

この映画は周吉さんの感謝がカギと言えると思います。

 

ただ、その感謝は自分が育てた子供ではなく、

いわば他人である紀子さんに対しての感謝なのです。

 

その感謝は、単に東京観光という限られた期間

に関するだけのものではなく、

もう間もなく、その生涯を終える周吉さんの人生

を通じてなされた感謝です。

 

周吉さんは、亡き妻、とみさんがその死の直前に

紀子さんに大変感謝していたことを伝えます。

 

映画は周吉さんも同様の感情を抱いていることを

示唆しているのです。

 

周吉さんはどうしても言っておきたいこととして

紀子さんの将来について語ります。

 

「お父さん、ほんとにあんたが気がねのう、

先々幸せになってくれることを

祈っとるよ、ほんとじゃよ」

 

これは周吉さんの遺言とも解釈できますね。

 

紀子さんに心から再婚をして幸せになってほしいと伝えています。

 

ここで紀子さんは両手で顔を覆って泣きます。

紀子さんは再婚するのでしょう。

それが時の流れというものなのでしょう。

 

東京へ帰る汽車の中で紀子さんが時計を見つめ、

それを手の中に握るシーンが不安と期待が

混在する紀子さんの心と未来を暗示しています。

 

私は先にこの映画は周吉さんの感謝で幕を閉じると

述べましたが、

それはストーリーにおける中身の意味で言いました。

 

実際には、最初に出てきたご近所の女性が現れて会話をした後、

一人ぼっちになった周吉さんの横顔から瀬戸内海を行く船の

映像で終わります。

 

一人ぼっちになった周吉さんは本当に寂しそうです。

このシーンは結構長くて、実はとても強烈な映像だと思います。

 

この映画に際立ったストーリーはありません。

どこにでもある日常が描かれているにすぎません。

 

しかし、映画の冒頭と最後の間には愕然とするほどの

差があることは誰の目にも明らかです。