日本で生まれ育ち、「コリア」をルーツに持つラッパー二人組ユニット「KP」、先日の日韓クルーズにも乗船してくれた彼らのワンマンライブに行ってきた。中学、高校と英国に留学、自らを在日ではなくコリアンジャパニースと呼ぶリウン、川崎の重工業地帯下町、二世の父とニューカマーの母の間に生まれ落ちたフギ。日本語にこだわり、幾千、幾万ものコトバを紡ぎ、時には会場からコトバを募り即興でラップを作り歌うフリースタイルで会場を沸かす彼らのステージは圧巻だった。


1960年代の黒人音楽にルーツを持つ「ラップ」だが、普段ラップを耳にしない僕は難解なジャンルだと思っていた。事実、大衆性があるかといえば難しいだろう。しかし、彼らのステージを聞いて驚いた。段差をまるで感じないのだ。初心者と上級者をわけることもない。音楽でもコントでもお笑いでもない。世代だって関係ない。もちろん、右も左も北も南もない。そして、彼らそのものであるコリアンとジャパニーズの差もない。まるでバリアフリーな世界だ。


世代、歴史、民族、言語、文化、国家・・・。彼らは生まれながらにして境界線上を彷徨ってきた。何事にも帰属できない不安と戦いながらも、一方でなにかにあてはまることを恐れ、何かに律せられることと葛藤してきた。否応なくなにかに帰属している僕たちは、ただ漠然と彼らのメッセージに身をゆだねるしかないのだが、彼らの世界にも立派に帰属した人間はいた。そのことがこの半世紀、日本の近代史を分かりにくくしたがKPはそんな自らの足下にさえ抗う。過去という錨をいつか断ち切らなければ船は前に進まない。「過去を変えずに未来を変えよ」。彼らの言葉は戦後62年、この時代に寄り添って色あせない。


話は変わる。僕がKPを知ったのは、いや正確にいうと「KP」を結成する前のフニ君を知ったのはあるテレビ番組がきっかけだった。日韓ワールドカップにはじまり、日朝国交正常化、拉致被害者の帰国など日本と朝鮮半島が激動した2002年、フジテレビの深夜枠のノンフィックスという番組で放映された「在日親子」というドキュメンタリーがきっかけだった。在日コリアンの家族に密着し、二世と三世、その世代のはざまで葛藤する三世フニ君が主人公だった。


この番組に寄せられた反響は大きく、翌年には二作目も作られた。私はこのドキュメンタリーをピースボートに集まる若者に見せた。その中のひとりの感想、「自分を取り巻く人間関係が、まるで手応えのない空気のように思えた。ぶつかるものがあるんですからそれだけでうらやましいですよ」自分自身の希薄な人間関係をブラウン管の中のフニ君を重ね思わずもれた本音だった。もちろん、そこには拭い去れない彼らの歴史がある.



その若者の一言はその「歴史」への共感ではなく、不安定な社会から逃れようと必死に生きる本音だった。しかし、歴史を知らないから吐ける本音でもあった。戦後62年、いまやこの日本に生きる誰もが何か境界線上を彷徨っている。この閉塞した時代、KPの二人はどこにいくのだろう。どこをめざすのだろう。

ガラスのように薄く華奢な世界、親子でさえ信頼の絆を疑わねばならくなった家。自殺サイトではたった数万円で命のやりとりが行われ、自己責任の名の下に国家に死刑宣告を下される。未来というコトバが輝きを失い、オルタナティブというコトバが曖昧な選択肢ばかりを増やし、世代というコトバをやたら握りしめ安心する人々。 希望と絶望、自由と不自由、不安と癒し、幸せと不幸せ、諍いと和解、歓びの涙と嘆きの笑い、饒舌な沈黙・・・。


そんな時代だからこそ、僕は彼らと共に抗いたいと思っている。未来を変えるなんてたいそうなことは言えない。だけど、抵抗した足跡はぐらいは残せればと思う。爆笑問題の大田光も言っている。「どうせそうならざるを得ない運命ならば、せめて、しなやかに崩壊する道を歩みたい」。右も左も北も南も、コリアンもジャパニーズも関係ないバリアフリーなKPの世界。この時代に共に抗う二人の共犯者を見つけたような気がする。

KP、彼らのオフィシャルウェブサイト

http://www.kpstyle.com/