ようやく僕の中で整理がついた。だから、文章で残そうと思う。


一昨日、作家の灰谷健次郎さんが亡くなった。享年72歳、早すぎた死だった。


灰谷さんと出会ったのは、もちろんピースボート船上である。大ファンだった友人のお供で、灰谷さんのお部屋でお話する機会があった。そのとき、ふとした事から気に入ってもらい、以来、今日に至るまで公私に渡ってお世話になった。最後にお会いしたのは、今夏、地球一周の旅に出発するので、その挨拶に伺ったときのことだ。食道癌の手術から復帰、療養中の灰谷さんは、体重こそ減ったなと思ったが、しっかりとした口調、足取りで、いつものように食事に連れていって下さった。別れ際、「中原君、もう僕はアカンからサヨナラやで」。そう、どこかはにかむように、子どものような笑顔で呟かれた。「そんな、言わんといて下さい」。そう答えた僕だったが、本当にそれが最後の会話となった。


灰谷さんは生前、自分は死を遠ざけたことは一度もなかった。そう話されていた。自身も神経症を患われ、死を決行しようと思いつめた時代もあったそうだ。また、長兄の自死に打ちのめされ、また、肝臓癌の次兄を看取った体験などから、モノとか金、人のこしらえたあらゆる権威も、死を前にすれば何ほどの価値もない。人のつき合いも、異性とのことも、いつも無常観のなかにあり、ドロドロにならずにすんだ。 ~中略~ 永遠に自分が消えて無になること、死ぬとき、襲われるであろう絶望的な苦しみ、それが死を恐れる一般的な人々の気持ちだろうが、それは、そんな死について考えても、納得したり、解決したりはできないものだ。


わたしは、人は生きたように死ぬ、という言葉が好きだ。人は、生きていたように、死も、また、そうやって死んでいく、と思いたい。(自著・「怒りは水の如くに」より)


僕が灰谷さんから学んだことは、人の生き死にを単に観念的なものとして捉えることではない。「いのちは大事にしないといけない」。それは、大前提であり、いのちを奪ったり、遠ざけようとする力には、激しい行動を伴って対峙しなさい。それが教えだったと考えている。だから、僕は灰谷さんは本の中に生き続ける。そういう思いは一切ない。思考がそこで止まってしまうことは、灰谷さんの意思に反する事だと思っているからだ。もちろん、多くの著作は灰谷さんの生きた証なのだが、それ以上に必要なことは、彼の意思を継いで行動することだと僕は思っている。皮肉にも日本社会は、灰谷さんが自身の作品で描かれた世界とは、余りにも程遠い反対方向に進んでいる。「次はアンタらの時代やで」、灰谷さんはそう言っている。


2006年11月23日早朝。


灰谷さんは天国に旅立たれた。同日、残された親族の方と、限られた友人、関係者らが自宅に集まって最後のお別れをした。僕も、その仲間に入れてもらった。夜、灰谷さんの自宅から見下ろす海では、冬の花火大会が開催されていた。波ひとつない静かな海、ピンと張り詰めた空気の中、大輪の花火が次々と打ち上げられた。


「すまんなぁ、雨の中ようさん来てもらって。花火でも見て帰ってや」

最後まで、本当に周りの人に気を使う、灰谷さんの声が聞こえて来るような気がした。


ありがとう、灰谷健次郎さん。