宋は中国の統一王朝の中で、軍事的に最も弱かった王朝だと思う。これというのも初代皇帝である趙匡胤が五代十国時代の反省から軍人の力を削ぎ、自身が軍人だったにも拘らず文治主義化を進めたからなのだが、これはうまくいって唐末以来の戦乱の時代に終止符を打っている。しかもこの趙匡胤は歴代皇帝の中でもかなり評価が高い。ではなぜ宋はこの文治主義化によって弱体化したのか。

宋の文治主義化による弱体化はだんだんと進んでいった。代を重ねるごとに文治主義は極端に成っていき、朝廷において高い地位を得た文官らは奸臣へと化していった。これが宋弱体化の原因だと思う。

しかも北宋末のその奸臣らは決して有能とは言えなかった。蔡京や童貫らの時代である。彼らの身が亡びても奸臣が権力を持っていることは変わらなかった。遼を倒すため金と結び、結果的にその金に開封を追われて北宋は滅び、臨安に逃れて南宋と成ったのである。無能な奸臣にチャーチルの真似をするのは不可能であった。チャーチルに例える宋から見れば金は確かに大悪魔スターリンであったかもしれない。しかし、スターリンに例える金から見ての遼はヒトラーではなかった。そう考えると宋が情けなく思える。

南宋と成ってもこの体制は変わらなかった。全線で活躍していた救国の英雄・岳飛は宰相の秦檜によって無実の罪を着せられ殺されてしまった。「秦檜による金との和平があったから南宋は滅びなかった。」という意見もあるだろうが、完顔亮の進攻などを考えると自分の頭には疑問符が付く。

そんな文官が権力を握っていた時代とは異なり南宋の滅亡時には忠臣の文官らが戦った。この時、新たな異民族・蒙古が金を滅ぼし、宋の都・臨安も陥落させた。しかし亡宋の三傑と呼ばれる「文天祥・陸秀夫・張世傑」の三人は最期まで宋を裏切らず、命をかけて蒙古軍に抵抗した。文天祥は陸上にて抵抗運動を続けて蒙古に捕まったが、仕官を断り自ら死を望んで南に向かって拝してから刑を受けた。陸秀夫は幼帝とともに海に身を投じた。張世傑は「天が宋を滅ぼそうとするなら、この船を覆せ」と叫び溺死した。この張世傑の最期をもって宋は完全に滅び去ったのである。彼らは初めから天下の情勢を覆すのは不可能と悟って抵抗したのだが、死後尊敬の念を受けたのである。

自分は歴史から何かを学ぶことが大切だと思う。亡宋の三傑の話し以前に長々と奸臣の話を書いたのは三人と比較するためだ。奸臣らは巨額の富を得、身を保ったが天下の人間に怨まれた。忠臣は国のために身を亡ぼしたが、後世には尊敬の的になった。因果応報という言葉があるがそのために悪行は駄目であって善行は良いのか?例え自分に行いが帰ってこなくても周りの人間は自分を見ているのである。無駄と分かっていても行動を起こすことで尊敬の念を受けるのである。今の世の中ならそれが次の行動に良く影響するかもしれない。命までとられないのだから。

歴史から生き方を学ぶことは決して悪いことではない。