暑さ厳しい折ですが、毎朝の読売新聞の朝刊コラムは自分にとって一服の清涼剤となっています。


この「編集手帳」、当然ながらタイトルというものがありません。他の方のブログを読む際であれば、タイトルを見て、本文もだいたいこんなこと書いてあるのだろうなと予想しながら読み進めていくものです。しかし、コラムはタイトルが無いため、書き出しを読んで、そこで面白くなかったら読むのをやめてしまうことにもなってしまいます。


この編集手帳の書き出しは、いろんな作家や俳優や女優、落語家のエピソードや、歌や小説、落語からの引用など、少し興味が湧くような書き出しになっていることが多いのです。ここ最近のものから書き出しを抜粋させていただきます。もしこの続きを読みたい方は・・・。メッセージを頂けたら続きの部分を読める方法をお教えしますww




7月6日
♪東京の中枢は丸の内/日比谷公園 両議院/いきな構えの帝劇に/いかめし館(やかた)は警視庁…。大正時代の流行歌『パイノパイノパイ』、別名を『東京節』ともいう◆昭和に入って愛知県から上京し、東京外国語学校(現・東京外国語大学)に学んだその人も日比谷公園を散歩しながら、♪ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ…を口ずさんだ日があったかも知れない◆童話『ごんぎつね』の児童文学者、新美南吉が安城高等女学校(現・愛知県立安城高校)の教員時代に作成した英語のテストが見つかったという





7月7日
旧千円札しかり、夏目漱石が遺(のこ)した肖像は表情に乏しい。いわゆる、すまし顔である。きのう読んだ記事は、その固まった頬が幾分ゆるむのを想像させた◆旧制五高(現・熊本大)の教授時代の漱石が、友人にあてた手紙が見つかった。<幸ひに御送金被下(くだされ)…少々くつろぎて候(そうろう)>と丁寧な筆でつづる。英国留学を前に金銭の不安を覚えていたところ、友人が思いがけないほど早く、借金を返してくれたという。





7月10日
八代目桂文楽の声が耳によみがえる方もあろう。〈四万六千日(しまんろくせんにち)、お暑いさかりでございます〉。落語『船徳(ふなとく)』である。この日にお参りをすれば4万6000日分の御利益があるという。きょう7月10日は観音さまの縁日である




7月13日
小唄の文句にある。♪やつれしゃんした三日月さんは、それもそのはず病み(闇)上がり…。月齢でいえば、暗闇から生まれた月がふくらみかけた頃である◆きょうも一日、なんとか無事に生き延びた。記録破りの猛暑つづきで、勤め帰りの感想はあながち誇張ともいえない。冷房の部屋で眠り、目覚める身体には、病み上がりに似ただるさも残る。夜空を仰いでは「ああ、おまえもか」と、やつれた三日月につぶやいた人もいるだろう。



7月19日
 女優の太地喜和子さんがまだ無名のころ、文学座で『にごりえ』に出演した。客席から声が掛かった。「フトッチ!」◆生まれて初めてお客さまから声を掛けられて、それが全然違う名前で、悲しくて一生忘れないですね――と、対談で語っている(大和山出版社『宮口精二対談集 俳優館』より)。楽屋で大先輩の杉村春子さんから言われたという。「あんたも、早くいい役者になって、名前を覚えてもらわなくちゃね」




7月20日
ロミオがジュリエットに語る。〈恋人のもとに向かうときは教科書から解放された学童の気持ち〉になる、と(シェークスピア『ロミオとジュリエット』第二幕より)◆かの文豪が勉強嫌いであったかどうかは知らないが、気持ちはよく分かる


7月22日
古川ロッパが帝国劇場でミュージカルに出演したときである。連日満員の盛況だというのに、帝劇社長・秦豊吉(はたとよきち)の顔は日に日に険しくなっていく◆ロッパは日記に書いた。〈(客の)入りがよくなると機嫌わるくなるのは、いい興行師なり〉(1951年2月18日付)。


7月23日
どちらも故人である。落語家の柳亭小痴楽さんと三遊亭金遊さんが夜の街で与太者にからまれた。凄(すご)みのある顔立ちの金遊さんがひと芝居打った。「てめえら、“爆弾の金(きん)”を知らねえか。相手になるぜ」◆迫真のタンカに相手がひるんだとき、小痴楽さんが言った。「ウソ。ウソ。こいつ、顔は怖いけど噺(はなし)家(か)なの」。悲惨な結末は申し上げない。


これらの書き出しから、当節の政治や世相への内容に転じて、うまくまとまっていきます。おそらくその結論部が最初から書いてあったら、面白くもなんともない。


よく、結論を先に書け、なんて文章術の本などでありますが、それは論文や企画書など、ごく一部のジャンルの文章を書くための心得のもの。


世の中にはそんな結論を急ぐような余裕のない文章以外に、数多くの「文章自体を楽しむ文章」というものがたくさんあります。


世の中のエッセーや小説、その他の文章はその読み進める文章の息づかいや話の進め方、枕(導入部)の置き方なども含めて味わい、愉しむもの。


文章は結論を受け渡すための道具ではないと思います。文章はもっと幅広く人を酔わせたり、人が生きていく上で貴重な気持ちになれたり、いろんな人の世の中の知恵が詰まっているものです。


この編集手帳の著者が書いています。たとえば野球の話題で何か書く。第一感で正岡子規が浮かびます。野球好きの子規は<中略>野球を題材に短歌もいくつか詠んでいて・・・。


そんな第一感で浮かんだ発想は陳腐に過ぎるため、著者は捨てるといいます。書くことのプロとして、あたり前すぎる引用や連想では、読者に意外感や爽快感もないのでしょう。有名すぎるエピソードを得意げに出しても、読者から、なんだそれくらい知ってらい、と笑われてしまいます。


それぐらい、書くことを生業とすることは、きびしい意識が必要なのでしょう。この藝も、深いものがありそうです。自分も鍛錬が必要だと思っています。