『身は泥中の蓮華』 お釈迦様の維摩経(ゆいまきょう)より
蓮の花は泥の池の中から綺麗で
美しくそして大きな花を咲かせます。
この美しい花を咲かせるためには汚く、
汚れた水が必要なのです。
綺麗で清らかな真水からは
綺麗で美しく大きな花は咲かないようです。
汚い泥水の中から養分を吸い取り
見事な大輪を咲かせるようです。
それと同じように。
私たちの日常。
「もうこんなのイヤだ!!!」
となることもあると思います。
ですが。
【私の意識】と【私の感情】
とは【別物】
です。
泥の中で前も見えないと、
「こんなのイヤだ!」という感情、
「イライラ感」はどんどん大きくなり、
その「イライラ」が
イコール自分、と思ってしまうこともあると思います。
でも。
「私の携帯電話」「私の財布」「わたしの息子」が
「私」ではないように、
「私のイライラ」は「私」ではないんです。
「私」とは・・・?
身体?? じゃ右腕がボトリと落ちた、
「あ、オレだ!ここにオレが落ちてる!」ではないですよね。
「私」とは・・・
『意識』であり『魂』の部分、
その人の『データ』の部分です。
その『データ』であるあなたと、『イライラ感情』とは
別物、持ち物であってイコールではありません。
【身は泥中の蓮華】
泥のような日常(泥が悪いわけじゃないですが)でも、
感情は泥によってかき乱されるかもしれませんが、
『意識』は
蓮の花に置きます。
『私はどういう生き方をしていくか。』
『私はこの世で何を成すのか。』
『私は父親としてどうあるのか?』
『私は妻として何を成すのか?』
『私は事業主として何を体現していくのか?』
蓮の花にそれを乗せて生きてゆきます。
感情は色々涌きます。
【蓮の花】が泥に目を向けて泥にエネルギーを割いていたら
きれいにはなれないと思います。
きれいな花を咲かせていること。
ただ『在る』 ということ。
その凛とした美しさの底では、いろんなことが起こっています。
でも。それをうまく栄養にするんですね。
うまく栄養にしながら、
「自分は何をこの世になしていくのか。」
「死ぬ直前に人生を振り返ったときに
どのような花が咲いていたか。」
そこに【意識】を置くんですね。
と、かくいう私が、自分の感情と
「どうやってつきあおっかな~」と、蓮に意識を向けざるをえない
日々を楽しんでいます(#^.^#)
お釈迦様。2,600年も前から。すごい(^.^)