いったいどんな少年だったのか
次は家康の子供時代を振り返る
家康は三河の地方領主、松平家の跡取り息子として生まれました。
子供の時の名前は「竹千代」
ちなみに
松本潤くんは幼い時から
顔が出来上がっていました。
岡崎市内の寺に竹千代時代の家康ゆかりのものがありました。
そこには竹千代が住職に勉強を教えてもらう時に使ったと言われる机を紹介されるのだが
住職が知ってか知らずか
「中腰になった方が見えやすいかもしれません」
住職……潤ちゃんは最近結構、中腰です。
その机には竹千代が彫ったという名前があって
子供らしい一面を覗かせていました(*^^*)
その反面
8歳、竹千代が書いた文字
「武運長久」
武士の運が長く続くようにお願いします、という意味だそうで……
つまり家康は幼い頃から
自分は松平のリーダーとして三河の地域を治めていかないといけないという思いがあった。
その当時から松平家当主としての自覚と
子供らしい部分の両面を持っていたんですね
三河の地に戻った家康は
ここから天下人への長い道のりのスタートを切るのです✨
潤ちゃん……横顔が
美しすぎて……( ¤̴̶̷̤́ ‧̫̮ ¤̴̶̷̤̀ ) ✧
いやいやそうでなくて(笑)
一瞬上を向いた潤ちゃんの表情に
家康が被った……
さて
家康に影響を与えた武将たちについてですが
まずは今川義元。
駿府(今の静岡市)を拠点に東海地方に大きく勢力を広げた今川義元の元で家康は青年時代を過ごしました。いわゆる人質として今川家に捉えられてはいるが、今川家の一員となって戦に出て、初陣を飾っている。
今川義元の教えと今川家で得た知識や経験が後に生きていったのかもというとこですか?
さて……
次は「長篠設楽原の戦い」……家康34歳のお話
へと進んでいきます。
徳川家康が人生最大の選択を迫られた大事件
2つ目は長篠 設楽原(今の愛知県新城市)での戦いです。
当時家康は織田信長と同盟をみ結んでいました。
その徳川、織田の連合軍が東の武田軍と戦いました。大量の鉄砲が導入され、戦国時代の戦いに大きな変化を与えたことで知られています。
決戦の場所を歩く潤ちゃん
なんか急にリアリティが出てきますね……
武田軍は馬での戦いが得意
それに対して徳川、織田軍は鉄砲で迎え撃ちます。
はい、おまたせしました。
ここで潤ちゃんが甲冑を着ます✨
ドドん!!!
なんか
可愛い……(笑)
さらに……続く