猫と暮らしているみなさんも、暮らしていないみなさんもこんばんは。
もうすぐクロピが虹の橋へいって1ヶ月が経とうとしています。
自責の念もありますが、この頃は虚無感を覚えて、ボンヤリすることが増えました。
典型的なペットロスですね。
父を突然亡くしたときも、同じような気持ちを経験したけれど、クロピには特別なものを感じます。
今回初めて猫のお葬式と火葬を経験しました。
クロピのお骨が返ってきて本当に良かったと思っています。
ここにクロピのお骨がある。
それを見ていれば、次第にその死を認められる。
たとえお骨でも「クロピはここにいる」と安心できます。
クロピが返ってきたときに葬儀社の方が確認のため、骨壷を開けて下さいました。
喉仏(正確には第二頚椎)だけ、紙に包んでくれていて広げて見せてくれた。
よくわからないなりに、見事なしっかりした喉仏だと思った。
先日、なぜかクロピの喉仏を見たくなって、初めて自分で骨壷を開けてみました。
真っ白なクロピの骨。
この骨が生まれたときからずっと、あの子の生活を支えていたんだな。
お骨になっても、こんなに愛しい。
黒猫の毛皮を脱いでお骨になって、その白さすら美しいと感じる。
クロピは初めて共に暮らした猫だった。
そして初めて看取った猫だった。
だから悲しみや寂しさ、喪失感が深くても当然だと思う。
愛する存在を失った心の過程を、私もたどっている。
それだけのこと。
クロピがいなくても新しい日がきて。
クロピがいなくても空には月が昇る。
長年ペットシッターをしてくれたSちゃんと、他愛のない話をしたり、一緒にドラマを観たりして、笑ったりもしているけれど。
虚ろな感じは拭えなくて。
明日になれば笑えるだろうか
あの日のように笑えるだろうか
失くしたものは何ひとつないと
願う 願いつづける
「対象a」 作詞/interface