明るい未来の話 | MC452 オフィシャルブログ 「大都会での粋な日々」 Powered by Ameba

明るい未来の話

あのー、何だろう。いきなりこんな話をするのもなんだけども、



うんこってどれぐらいする?



回数ね。



月にっていうか、まぁ週にの方がわかりやすいのかな。



デザさんは日に2,3回って云ってたけどこれどうなの?みんなそんなもん?



オレ最近ね、週1ぐらいになってきてる気がする。



なんでだろ。これが良い傾向なのかどうなのかはわからないんだけど。でも日に2回も3回もはちょっとやりすぎだと思うよね。うんこマンでしょ。みんなそうだというのならばみんなうんこマンでしょ。



オレはノーうんこマンだよ。覚えといてくれたまえよ。



でね、



まぁ先日久々にうんこしようと思って夜中。珍しく。これまた久々に家でうんこしたんさ。いや、家でって違うよ自宅のトイレでね。部屋なわけないじゃんアホなの?



まぁ普段うんこ出そうになってもだいたい出ないんで、環境のいいトイレまで行ってしてんのね。家はあんま環境がよくないから。



で久々に家でうんこしたらさ、



つめてーのね。



便座。



季節を感じるよね。と同時に人間の傲慢さを感じたわけよ。ラクしてんなー、と。



なんでもかんでも人間の都合のいいように作り変えて。しまいにゃ地球も四角くなるんじゃねーかって。藤原道長じゃないけども。



ま、甘えて甘えて生きてゆくんだけどね。



ちなみに別の話なんだけどさ、「便座」って言葉もなかなか面白いと思うの。だって「便器」はほら、“便”の“器”じゃんか。でも便座に座ってる便は見たことないっしょ。何かあれ別のネーミングできなかったのかな。なんならこれ読んだあとあんま便座に座りたくなくなんない?なるっしょ。なんか便が座ってるような気がして。或いは「えっ、座ってるあたしが便?」みたいな。わかんないけど。



さらに云うならさ、「肉便器」っていう言葉があるでしょ。まぁあんま綺麗な言葉じゃないけどもまぁずっとうんこの話してるからいいでしょ同じようなもんで。“肉便器”ってさ、すごくね?たぶん“肉”は“人間”の意味だと思うんだよね。それはわかる。人を表現する言葉なんだ、と。でもさ、“便器”はもう、便器じゃん。汚いじゃん。触れたくないじゃん。



あ、そゆこと?



おはようございます。しごつーです。ご挨拶が遅れましてすみません。まただいぶとご無沙汰をしてしまいました。



何でしょう、まぁ便利(うんこの話をしたあとで“便利”ってなんかフクザツな気持ちになるね)かどうかに限らず新しいものがどんどん増えていって、人間の生き方が多様化しているように思います。



逆にいうと、個性的なものはどんどん捨象されていって、人間の生き方はみんな同じようになってきているように思えるんです。



わかります?まぁ視点の問題なんですが。マクロでみると単一化していて、ミクロでみると多様化していっている。



ここではあくまで日常生活に関わる部分で、っていう話をしたいんですけど、



例えばまぁ、そうですね。まぁお米を炊くにしたって、炊飯器なり鍋なりフライパンなりといろんな方法があって。その炊飯器にも種類がたくさん。もっと言えばパン焼ける炊飯器だのオーブンになるレンジだの、次々に“新しいもの”が生まれてきていて。



出来ることが増えているんですよね。個人レベルでみても“世界”は広くなっている。



逆にいうと個人視点でも“世界”(範疇)が狭くなっていっているなぁ、と思う部分があって、まぁ多くの人はそちらの論調が多いと思うんですが、



ふと思ったんですよ。



「オレって例えば明日死んだらどーなんのかな」って。



(関係者各位:いちお死なない前提で考えてます。万が一死ぬときはちゃんと業務に支障ないようにスタンバっときますんで)
まぁ近々死ぬ予定とかそういうことではなくて、本当に机上の話。



死んだら、誰が気付いて誰が確認して誰がどう動くんだろうか、と。



ゾッとしますよね。



人って簡単に消えることができるんじゃないか、って思うんです。生死に関わらず。



それは“世界”が狭いから、なんですけど。まぁでもそれが広いからっつったってどうなんでしょうね。みんなまぁ簡単に死ねると思いますけど。死ぬのは簡単なんで。



そう。



死ぬのって簡単なんですよね。たぶん。



「出来ることが増えている」から。



レンタンを使って亡くなった知人がいます。まぁ感傷的な話をここでする気はないので話の流れ上そこは省きますが、私にしてみたら「えっ、レンタンってどこで買うの?」なんですが、たぶんどこでも簡単に手に入るんでしょうね。アマゾンさんもだいぶ便利になってきているようですし。



同じようにと云っていいかわからないんですが、たぶんハジキだろうがクスリだろうが日本刀だろうが、何だって簡単に手に入る世の中なんですよね。“世界”の話ですね。



なので、まぁ人が死ぬ“方法”が多様化しているんですよ。語弊を恐れずに云うと「人が死にうる状況」が生まれやすくなってきている。もちろんこれは方法・手段だけでなく“理由”もそうですよね。個々人によることなので内容・程度の差はあれど。



“世界が広くなった話”ですね。



じゃあね、人間が生きる理由って、どうなんでしょうか。



これ、すごく難しいところで。「人類の存在する命題」みたいな意味じゃなくて、ひとりひとりの生きる理由、言い換えるなら例えば“生きがい”、“夢”なんて換言できるんでしょうか。つまり個々人の「あたしはこれのために生きてる!」っていうやつです。便宜上「生きる理由」って呼びますね。



「生きる理由」は、多様化しているのでしょうか。



そう思えない私は悲観しすぎですか?でも、そう見えて仕方がないんですよね。



「死ぬ理由」は増えているのに「生きる理由」は減っているとしたら、これってすごく悲しいなと思うんです。



だってやれる事は増えてるんだから、可能性広がるじゃないですか。じゃあ「生きる理由」、増えるはずなんですよね。なんなら1人の人間が持つそれがたくさんあったっていい。あれもこれもそれも。



でもそれが、感じとれないんです。そんなワクワクする未来が見えない。



たぶん、人間が悲観的になってきちゃったんじゃないかな、って思うんです。



色んなことが見えるから、そのたいへんさもわかる。→できない→やらない



決してわからんではない。辛いのもわかる。痛い程わかる。わかるんですけど、それって悲しすぎやしないか、と。勿体ないと、思うんです。



よくね、「結婚願望は?」とか、「子どもは?」なんてこと言いますけど、そんなことより「自分」どうなの?って思うんですよ。突き詰めれば人類の命題みたいな部分になるかもしれない話なんで、この問いはたぶんずっと昔から答えを先延ばしにしてきて今があるんだとも思うんですけど。



じゃあさらに云うなら、それって先人はなぜ未来に答えを託したのか?っつったら、未来なら解決できると思ったから、なんじゃないでしょうか。これは考え過ぎだとわかった上で悪あがきの為に云ってますが。



じゃあその“未来”っていつなの?



いつやるの?



いまでしょ!!!!!!!!!!!



ま、そこまでは過言なんですけど、みんなが1人1人「生きる理由」みたいなものを追い求めることができる星でいてほしいと思います。



出来るはずなので。



みんながみんな幸せになってほしいです。



それが出来るはずだと、信じています。



締まるとこだったのに思いついちゃったんで書きますけど、



なんで「“幸せ”の作り方」みたいなものって教えてくれないんでしょうね。



まぁ答えは無いんでしょうけども。



なんていうか、悲観しがちな世の中な感じがします。私自身そうです。世の中についても、自分についても。でも、もっと未来は明るいんじゃないかな、って思います。何の根拠もないけど。



だって、未来明るい方がいいじゃないですか。ってみんな思っているはずだと思うので。



じゃなきゃ世界は・・・、きちーよね。



なんだか久しぶりなのにまたマジメな話をしてしまったけど、



ま、明るい未来作りましょう。



私もがんばります。



んじゃまたな(^ー^)ノ