勉強し続ける社会 | MC452 オフィシャルブログ 「大都会での粋な日々」 Powered by Ameba

勉強し続ける社会

文化系トークラジオLife、ようやくPodcastを聞きました。



毎回思うんですが、やはり4時間もあるコンテンツを消化するのは大変ですね。



ナマで聴いて、或いは見ているとユーザーストリームのせいもあってそんなに長く感じない場合もあるんですが、やはり後で聞こうと思うとどうしても億劫になってしまいますね。



映画なんかもそうで、やはり「決まった時間拘束されることが確定しているコンテンツ」というのはコミットするのが難しいものです。深夜イベントなどはその最たるもので、全く関わりのないイベントに始発電車が出るまで拘束されるというのは、これ完全に陶酔できなかった場合には地獄でしかないわけで、やはり“人の時間を頂く”というのはすごいことなんだな、と改めて思わされます。



楽曲作りもそうで、「これ4分32秒要るか?」といった疑問は日々抱えながら生きています。そういった面でも常々“勉強”が終わりを見せることは無いのでしょう。



おはようございます。しごつーです。ご挨拶が遅れましてすみません。今回、枕がだいぶと上手くいったんじゃないでしょうか。10月の文化系トークラジオLife、今回(前回、と云った方がよいのでしょうか)のテーマは「勉強し続ける社会」。震災以降やたらとメディアに溢れだした学者さん、そして職業・年齢を問わずそれに受動的・あるいは能動的にコミットする機会が急速に増えだしているように見えるいわゆる「勉強ブーム」、今回のLifeも大いに楽しみながら聞くことができました。



例によっていろいろ考えることがあったんですが、私独自の目線で、そうですね。私の“発信すべきこと”を少しだけ(番組本編及び外伝をお聴きになっていない方にわかりづらい書き方になってしまったらすみません)。



まず最も気になったのが「池上さんブーム」のお話。



私の印象では、池上さんがあれだけもてはやされたのは、彼が「自分のオピニオンを一切出さない人」だったからではないか、と思います。



つまりテレビに出ている所謂有識者や専門家は、えてして自分の確固たる意思を持ち、それをこちらにバシバシとぶつけてくるものです。それって、疲れてしまうんですよね。何しろ情報が次々と手元に飛び込んでくる時代、それに加えて人の考え方がバンバン入ってきて、そのくせ基礎的な教養を持たない我々にはその意味が全くわからない。例示すると「イソフラボン配合」「ポリフェノールたっぶり」「アミノ酸が豊富」、え!?って。イソフラボンが何なのか、ポリフェノールがどんな働きをするのか、アミノ酸がなぜ大切なのかを知らないままに情報ばかりが入ってくる時代にあって、その“意味”だけを解説してくれたのが池上彰だったのでしょう。



これは余談ですが池上さんが飽きられてしまったのは、彼が自らのオピニオンをちょいちょい出すようになってからではないかと思えてなりません。閑話休題。



これは「発信する機会が増えた」社会にも密接に関連していて、何かとインプットされる世にあて、かつ発信できるツール、チャンネルもたくさんある。しかしながらそのインプットした情報を自分の中で消化、或いは(自らのオピニオンとして)昇華するための素養がないために、やはりインプットされる情報をフローさせるにとどまってしまうという残念な状況に陥ってしまうのかな、と。やはり人間というのは、どんな形であれ自分の思いを人に伝えたいものなのでしょう。だからBlogにはコメント欄があるんですよ。ねぇわかりますかみなさん。



で、そこへ来ての“お勉強”。これも「必要に迫られての勉強」のひとつであると思います。種類としては「興味のための勉強」寄りだとは思いますが。



しかし“お勉強”をしているとどこかバカにされる。だいたいにおいて「お」が付けられるものなんていうのは半ばバカにされているものです。ではなぜお勉強をするのがアホくさく見えてしまうかというと、やはりそのキーワードは“反復”なのではないかと思います。



「学習」とは即ち「学ぶこと」と「習うこと」であって、“新しいものを知る”だけでなくとりわけ数学などといった科目については“反復練習”を伴うものです。その、“おなじことをアホみたいに繰り返す様子”がやはりアホくさく見えてしまうのではないでしょうか。読書にしてもそう。中身が見えない人間にとって他人が読書をするさまは、ただただ紙に目を落としてペラペラとめくっては読み、めくっては読み。



そう、これも「伝わってこない」というところに関連します。何か得体のしれないことをしている人って、どうしても奇妙に、或いは滑稽に見えてしまうんですよね。そればかりではないと思うんですが。



あとは気になった単語を幾つか。



・語学学習

こればかりは難しいですね。序盤で「切り捨てのための資格」というお話もありましたが、人間の忍耐力が試される学習の最たる例が語学なのではないかと思います。私はこれが大の苦手であるため、これを好奇心から進んでできる人が羨ましくてなりません。何か良い方法は無いものなのでしょうかね。



・プア充

このワード、あまり知らなくてすみません。これって、だいぶ問題のある単語なんじゃないかなって思いました。「貧しいけど充実している」って、それつまり「満足しちゃってる」とか「甘んじている」っていうことなんじゃないでしょうか。足立区のある学区では生徒の保護者に一律で就学援助の受給申請用紙が配られると聴いたことがあります。もうそれがフツーになっているというか。仕事いって帰って寝る、起きて仕事にいって帰って寝てはまた起きて仕事に行く。このサイクルで一応肉体は保てても、果たして精神は大丈夫なんでしょうか。「プア充」がそんなに薄っぺらい単語とは思わないものの、やっぱり貧しいということって、どうしても何がしかの抑制を伴うわけで、裕福とは云わないまでも健康で文化的な最低限度の生活はほんと基本条件だろうな、と思います。まぁでも、充実しないよりは充実している方がいいんでしょうかね。いや、でもそれではハングリー精神が・・・って話が変わってくるんでこんなもんにしときますか。



・99年

「99年は名作の宝庫だ」というお話。もちろんルネサンス的懐古感も多分に含むとは思うものの、Y2K以降音楽もペラいものが増えたなぁという感想は禁じえません。「2000年代に名盤がない」とは尊敬する某氏の言。やはり90年代ってステキな曲多いです。ほんとにCD売れる時代だったんだなぁー、っていうか、今考えてみると作り手の衝動がバシバシ伝わってくるようなもの、“新しい”ものがたくさん生まれていたような気がします。しかしながら個人的には2000年代も捨てたもんじゃないな、っていうのもあって、初頭のこまごましたムーブメントは沢山ありました。ケツメイシさんもデビューがその頃で、YUIさんは04年。現在に至るまで活動を続けているアーティストも枚挙に暇がないわけですが、ミッパンやら少年カミカゼやらもこのぐらいの頃です。だから細かく細かく見てゆけば99年外にもステキな作品はそれこそ掃いて捨てる程あるのでしょうが、宇多田ヒカルさんのアルバム『First Love』が99年3月というデータを見て「なるほど」しか申し上げようがありませんでした。



と、うわぁもうたくさん書いちゃいましたね。お読み頂いた方、ありがとうございます。



というわけで、来月の文化系トークラジオLife 文化系大忘年会も楽しみにしましょう。ついでなんですがLifeの感想ってみなさんどのくらい書いてるんでしょうね。Life感想で検索してこちらにお越しいただいた方がいらっしゃいましたら「あたしもっと書いてるよ-」なんて教えて頂ければ是非遊びに行かせていただこうと思いますので、よろしくどうぞ。



それ以外の方は・・・、そうですね。ま、気が向いたらLife聴いてみたら?



んじゃまたなパー





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