「残したいこと、忘れない方法」- 今月の#Life954 -
おはようございます。しごつーです。
久々にLifeをリアルタイムで聴けました。
MUSIC APPLEも週替りでっていうことはまぁ好きなパーソナリティーの回だけ聴くとしたら月イチか。にしてもLifeは隔月って。本当にLife自体が「残したいこと」ですね。みんなの場所はみんなで守っていこう、と。クラブ摘発騒ぎとおんなじようなことを云ってみます。
さて、久々に感想戦に参加しましょうかね。といっても後半諸事情で全然内容アタマに入ってないんですが(察して)。前半、考えさせられた部分に関して深く掘り下げます。
以下、お聴きになっていない方にも伝わるように書きますが、たぶんお聴きになっていない方々からすると読んでも一切楽しくない予感がするので、ご注意ください(Podcastが配信されるので、聴いてくださる方が増えたらうれしいな)。
・ロックンロールとヒップホップの話
速水さんの論から展開、Charlie「ロックはバンド編成で人が移り替わるのに対し、ヒップホップはテクノロジーを媒介としているため時代を映す」
これはなるほどと思う反面、そんなに簡単な問題ではないだろうな、とも思いました。そもそも「ロック」にしても「ヒップホップ」にしても、その定義は玉虫色です。「定義されないのがロック」と云う人までいるかもしれません。
“バンド編成”にしたって、それが時にピアノを伴ったり、シンセドラムをフィーチャーしたりスカを踏襲する形をとったり、それこそ音楽に限らず芸術はおしなべて時代を投影するものであるように思います。変わらないのは民俗的なものぐらいでしょうか。使う楽器が土着のものであるタイプの音楽は振り幅が少ないかな、と思います。変にエフェクトをかけるのも嫌うでしょうし。R&Bでさえだいぶと時代によって変遷しているように感じるのは私だけではないはず。
私は生来のパンクスなのですが、けっこースカロック、スカコアも好きなところがあります。また来ませんかね。スカブーム。今なんかカワイイ()女の子がいっぱい世に溢れてるんだから、テキトーに引っ張ってきて前に立たせて姫スカとかやればいいのにね、なんて。どうですかトイファクさん。ねぇ。
・センチバの話
一曲目にCharlieがかけたクリープハイプといい、わりとLifeは自由な音楽をかけることでもお馴染みですね。換言すると時代に左右されない、というか。センチメンタル・バス「Sunny Day Sunday」も、バッキバキの懐メロと云って差し支えないものと思います。
ただこれ、私にとってはそんなにただの「懐メロ」というカテゴリの曲ではないんですよね。毎年夏に聞きたくなるというか、聞くというか、
野球好きの方にはお馴染みですかね。
甲子園。
この夏もたくさん流れてましたね。野球の応援に使われる曲、というのはわりと毎年固定されているように思います。これも「継承」ではないでしょうか。
宇宙戦艦ヤマト(ささきいさお)、紅(X)、サウスポー(ピンクレディー)など、お馴染みの曲を聞くと「夏だなぁ」という感じが致します。今の子供達はもうそろそろセンチバもオリジナル版知らないんじゃないでしょうか。こういった形での音楽の継承も、実に興味深いものです。私も死ぬまでには甲子園で大音量で合唱されるような曲を作りたいものです。そういえば日大山形の校歌めちゃめちゃカッコよかったですね。めっちゃカッコよかった。大事なので二度云いました。ご存知無い方は是非ググってみてください。
・「継承」の話
これは今回のテーマなので全編にわたって話題になっていたものではありますが、やはりだいぶと中身が濃かったです。ジェフ・ジャービスの「パブリック」、そして「フリー」、「シェア」の話はLifeで何度も取り沙汰されていますが、情報化を経てこのソーシャル時代において「継承」の在り方はかつてとは大きくその様相を変えました。
モノの継承についてはCharlieの言から引用すれば「所有権と利用権」というのが実にわかりやすかったように思います。言い換えれば、CDをお店で買うのではなくCDのデータをiTunesストアで買う、或いはCDを貸すのではなくそのデータを共有する、といった具合。かつての「所有」の概念は、今ではまったく違ったものになっているように思えます。
Lifeで広げると、以前アーカイブ問題の話をしていた回で言及していた「移動手段がノスタルジーを感じる手段に変わっている」という話に似ているように思えます。「モノ」自体は「時代を感じる」ためのものとなっている、と。音声データ(というかもはやそれを“データ”と呼ぶのもはばかられますが)に残るノイズを通して、録音した時代との距離感を感じることであったり、テープが伸び切って半音高くなったビートルズを聞くことであったり、やはりどちらも「感慨」を愉しむために「モノ」を継承しているんだな、と思えます。
もちろんそれが悪いとは云いませんし、むしろ私自身それに浪漫を見出す人間であることを隠そうとも思いません。
ただ、
この世にある全ての音っていうのは、数字で表せるんですよね。
ほれ、一気に興ざめ。
音に限らずたとえば建造物や絵画、フィギュアには「エイジング」という加工を施すことができます。それも「生のものとは違う」といえば確かにその通りではあるんですが、そんなん云いだしたらもうそれこそキリがないんですよね。
・「時代性の継承」の話
これはセンチバの話にも繋がるんですが、面白い話でした。「十年ひと昔」とはよく申し上げたものですが、やはり今の子らにとって1988年は「むかし」に含まれてしまうのでしょうか。
ワカモノの端くれである私は、「むかし」という言葉はあまり自分の人生に対しては使いません。「小っちゃい頃」、「高校生ぐらいの頃」といったようにその、数えることができてしまうからなんですよね。私の中でなんとなくざっくりとした「むかし」のイメージとしては、テレビが白黒の時代ですかね(テレビっ子)。「古いなー」って思います。さすがに白黒テレビ時代を指して「このあいだ」なんておっしゃる方はいないと思いますが、やはり世代や個人で差はあるのでしょう。もっと云うと、元号はもとより「近代」「現代」などといった概念にもひょっとすると差が、或いは時とともに遷り変わっていくものなのかもしれません。
そういった視点でも民俗学はおもしろいものです。ちょうどつい最近青空入りした敬愛する柳田國男先生もきっとデンデラ野の縁でほほえんでいらっしゃることでしょう。
・私の話
けっこー書いたんで、私の「残したいこと」の話をしてまとめとしましょうかね。他にもいろいろ書きたかったんですが。
私の残したいものは、ズバリ気持ちです。
こんな書き方をするとクソロマンチストめ、とかキザ男め、とか思われてしまいそうなんですが、
その通りです。すみません(やかましい)。
気持ちって、すぐ逃げるんですよね。いろんな意味で。
シアワセな瞬間も、悲しい瞬間も、一瞬で過ぎ去っていってしまう。「思い出」は残るんだけど、もう同じシアワセは恐らく二度と訪れない。
Aqua Timezさんの「虹」にはこうありました。
♪
似たような喜びはあるけれど
同じ悲しみはきっとない
♪
(詞:太志)
![](https://ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B00156ZXY6&Format=_SL110_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=mc452-22)
![](https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=mc452-22&l=as2&o=9&a=B00156ZXY6)
難しいものです。
結局、なんでもかんでも過ぎ去っていってしまうものです。まして心のなかに大切にしまった「思い出」だって、いつか消えてしまうかもしれないと思うと遣る瀬ない。
それを伝えるのが言葉です。
「言葉」は素晴らしい。これ、本編でも言及がありましたが。
方言、訛りであるとか、いわゆる「古い言葉」も含めて。そういったかけがえのないステキなものたちが淘汰され、洗練されていってしまうのは、なんとも心苦しいです。今ここ書いてて感情が抑えきれずに誤字を連発して何度も書き直したのはここだけの秘密です。
そういった意味でも、もちろんそれに限界があることもわかっていますが、文化人類学や民俗学にはがんばっていただきたいと思う次第です。
結局「受け継いでいく方法」については・・・、どうなんでしょうね。やはり芸術に託すしかないんでしょうか。
そんなこんなで難しそうな話をダラダラとしてしまったので、お口直しの意味合いも含めてこれに関連したくだらない話をして結びとしましょうかね(まだ続くの?)。
鍵。
鍵って、「開ける」じゃないですか。
その逆は?
・・・
「かける」?
あれ?ってことは、「開ける」じゃなくて「外す」が正しいのか?ん?でもそれは“鍵”じゃなくて“錠”か?っていうか我が家では小っちゃい頃から鍵を「しめる」って云うんだけど、これ方言?
言葉の謎を追っかけていくのはとても面白いものです。
んじゃまたな![パー](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif)
MC452
![読者登録してね](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/decoPeta/pc/decoPeta_22.gif)
久々にLifeをリアルタイムで聴けました。
MUSIC APPLEも週替りでっていうことはまぁ好きなパーソナリティーの回だけ聴くとしたら月イチか。にしてもLifeは隔月って。本当にLife自体が「残したいこと」ですね。みんなの場所はみんなで守っていこう、と。クラブ摘発騒ぎとおんなじようなことを云ってみます。
さて、久々に感想戦に参加しましょうかね。といっても後半諸事情で全然内容アタマに入ってないんですが(察して)。前半、考えさせられた部分に関して深く掘り下げます。
以下、お聴きになっていない方にも伝わるように書きますが、たぶんお聴きになっていない方々からすると読んでも一切楽しくない予感がするので、ご注意ください(Podcastが配信されるので、聴いてくださる方が増えたらうれしいな)。
・ロックンロールとヒップホップの話
速水さんの論から展開、Charlie「ロックはバンド編成で人が移り替わるのに対し、ヒップホップはテクノロジーを媒介としているため時代を映す」
これはなるほどと思う反面、そんなに簡単な問題ではないだろうな、とも思いました。そもそも「ロック」にしても「ヒップホップ」にしても、その定義は玉虫色です。「定義されないのがロック」と云う人までいるかもしれません。
“バンド編成”にしたって、それが時にピアノを伴ったり、シンセドラムをフィーチャーしたりスカを踏襲する形をとったり、それこそ音楽に限らず芸術はおしなべて時代を投影するものであるように思います。変わらないのは民俗的なものぐらいでしょうか。使う楽器が土着のものであるタイプの音楽は振り幅が少ないかな、と思います。変にエフェクトをかけるのも嫌うでしょうし。R&Bでさえだいぶと時代によって変遷しているように感じるのは私だけではないはず。
私は生来のパンクスなのですが、けっこースカロック、スカコアも好きなところがあります。また来ませんかね。スカブーム。今なんかカワイイ()女の子がいっぱい世に溢れてるんだから、テキトーに引っ張ってきて前に立たせて姫スカとかやればいいのにね、なんて。どうですかトイファクさん。ねぇ。
・センチバの話
一曲目にCharlieがかけたクリープハイプといい、わりとLifeは自由な音楽をかけることでもお馴染みですね。換言すると時代に左右されない、というか。センチメンタル・バス「Sunny Day Sunday」も、バッキバキの懐メロと云って差し支えないものと思います。
ただこれ、私にとってはそんなにただの「懐メロ」というカテゴリの曲ではないんですよね。毎年夏に聞きたくなるというか、聞くというか、
野球好きの方にはお馴染みですかね。
甲子園。
この夏もたくさん流れてましたね。野球の応援に使われる曲、というのはわりと毎年固定されているように思います。これも「継承」ではないでしょうか。
宇宙戦艦ヤマト(ささきいさお)、紅(X)、サウスポー(ピンクレディー)など、お馴染みの曲を聞くと「夏だなぁ」という感じが致します。今の子供達はもうそろそろセンチバもオリジナル版知らないんじゃないでしょうか。こういった形での音楽の継承も、実に興味深いものです。私も死ぬまでには甲子園で大音量で合唱されるような曲を作りたいものです。そういえば日大山形の校歌めちゃめちゃカッコよかったですね。めっちゃカッコよかった。大事なので二度云いました。ご存知無い方は是非ググってみてください。
・「継承」の話
これは今回のテーマなので全編にわたって話題になっていたものではありますが、やはりだいぶと中身が濃かったです。ジェフ・ジャービスの「パブリック」、そして「フリー」、「シェア」の話はLifeで何度も取り沙汰されていますが、情報化を経てこのソーシャル時代において「継承」の在り方はかつてとは大きくその様相を変えました。
モノの継承についてはCharlieの言から引用すれば「所有権と利用権」というのが実にわかりやすかったように思います。言い換えれば、CDをお店で買うのではなくCDのデータをiTunesストアで買う、或いはCDを貸すのではなくそのデータを共有する、といった具合。かつての「所有」の概念は、今ではまったく違ったものになっているように思えます。
Lifeで広げると、以前アーカイブ問題の話をしていた回で言及していた「移動手段がノスタルジーを感じる手段に変わっている」という話に似ているように思えます。「モノ」自体は「時代を感じる」ためのものとなっている、と。音声データ(というかもはやそれを“データ”と呼ぶのもはばかられますが)に残るノイズを通して、録音した時代との距離感を感じることであったり、テープが伸び切って半音高くなったビートルズを聞くことであったり、やはりどちらも「感慨」を愉しむために「モノ」を継承しているんだな、と思えます。
もちろんそれが悪いとは云いませんし、むしろ私自身それに浪漫を見出す人間であることを隠そうとも思いません。
ただ、
この世にある全ての音っていうのは、数字で表せるんですよね。
ほれ、一気に興ざめ。
音に限らずたとえば建造物や絵画、フィギュアには「エイジング」という加工を施すことができます。それも「生のものとは違う」といえば確かにその通りではあるんですが、そんなん云いだしたらもうそれこそキリがないんですよね。
・「時代性の継承」の話
これはセンチバの話にも繋がるんですが、面白い話でした。「十年ひと昔」とはよく申し上げたものですが、やはり今の子らにとって1988年は「むかし」に含まれてしまうのでしょうか。
ワカモノの端くれである私は、「むかし」という言葉はあまり自分の人生に対しては使いません。「小っちゃい頃」、「高校生ぐらいの頃」といったようにその、数えることができてしまうからなんですよね。私の中でなんとなくざっくりとした「むかし」のイメージとしては、テレビが白黒の時代ですかね(テレビっ子)。「古いなー」って思います。さすがに白黒テレビ時代を指して「このあいだ」なんておっしゃる方はいないと思いますが、やはり世代や個人で差はあるのでしょう。もっと云うと、元号はもとより「近代」「現代」などといった概念にもひょっとすると差が、或いは時とともに遷り変わっていくものなのかもしれません。
そういった視点でも民俗学はおもしろいものです。ちょうどつい最近青空入りした敬愛する柳田國男先生もきっとデンデラ野の縁でほほえんでいらっしゃることでしょう。
・私の話
けっこー書いたんで、私の「残したいこと」の話をしてまとめとしましょうかね。他にもいろいろ書きたかったんですが。
私の残したいものは、ズバリ気持ちです。
こんな書き方をするとクソロマンチストめ、とかキザ男め、とか思われてしまいそうなんですが、
その通りです。すみません(やかましい)。
気持ちって、すぐ逃げるんですよね。いろんな意味で。
シアワセな瞬間も、悲しい瞬間も、一瞬で過ぎ去っていってしまう。「思い出」は残るんだけど、もう同じシアワセは恐らく二度と訪れない。
Aqua Timezさんの「虹」にはこうありました。
♪
似たような喜びはあるけれど
同じ悲しみはきっとない
♪
(詞:太志)
難しいものです。
結局、なんでもかんでも過ぎ去っていってしまうものです。まして心のなかに大切にしまった「思い出」だって、いつか消えてしまうかもしれないと思うと遣る瀬ない。
それを伝えるのが言葉です。
「言葉」は素晴らしい。これ、本編でも言及がありましたが。
方言、訛りであるとか、いわゆる「古い言葉」も含めて。そういったかけがえのないステキなものたちが淘汰され、洗練されていってしまうのは、なんとも心苦しいです。今ここ書いてて感情が抑えきれずに誤字を連発して何度も書き直したのはここだけの秘密です。
そういった意味でも、もちろんそれに限界があることもわかっていますが、文化人類学や民俗学にはがんばっていただきたいと思う次第です。
結局「受け継いでいく方法」については・・・、どうなんでしょうね。やはり芸術に託すしかないんでしょうか。
そんなこんなで難しそうな話をダラダラとしてしまったので、お口直しの意味合いも含めてこれに関連したくだらない話をして結びとしましょうかね(まだ続くの?)。
鍵。
鍵って、「開ける」じゃないですか。
その逆は?
・・・
「かける」?
あれ?ってことは、「開ける」じゃなくて「外す」が正しいのか?ん?でもそれは“鍵”じゃなくて“錠”か?っていうか我が家では小っちゃい頃から鍵を「しめる」って云うんだけど、これ方言?
言葉の謎を追っかけていくのはとても面白いものです。
んじゃまたな
![パー](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/106.gif)
MC452
![読者登録してね](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/decoPeta/pc/decoPeta_22.gif)