「I met a boy.父の日に、バンビ公園で」 | MC452 オフィシャルブログ 「大都会での粋な日々」 Powered by Ameba

「I met a boy.父の日に、バンビ公園で」

(追記:記事の最下部にリンクを添えました)


昨日の記事で伝えたかったことが全然書けていませんでした。すみません。いやまぁ別段誰に謝ることでもないのか。



何が云いたかったかって読み返してよくよく考え直してみるとね、"未来"にいる、っていうことなのね。



「今来」っていう言葉がないのが不思議なくらい。



予想だにしなかった空想だとか、ずっと先のことだと思っていた空論っていうものが、すぐ先に迫っていたり、目の前に訪れていたり、もう手のひらの上にあったりするんだよね。カラーテレビだって携帯端末だってコンタクトレンズだってそうさ。こんな時代になっているんだ。



COPPELIONの設定は2036年。



ほしのこえは2046年。



攻殻機動隊にいたっては2030年だからね。



30年後の未来は、10年経てば20年後に。20年経てば10年後にまで迫ってくるわけで。「現在」っていう言葉は現在の目線から考えた時制であって、やっぱり過去から考えたら「今来」っていう言葉があっておかしくないんじゃないかと思うのです。10年前からみたら10年後の未来である今来。



さらに云うと、っていうかこれが本線なんだけども、年々「未来」は足が速くなってきている。足が早いと換言することもできるだろうか(辞書ひいてちょうだい)。だから、過去から見た今来は、未来に追いつかないとだめだな、っていうことにようやく気がついた。たぶんこれ気づかずにやっている人が大半なんじゃないかとは思うんだけども。夢に日付を入れる、みたいなものですかね。



中学生になってみると、思い描いてたそれとはなんかちがかった。高校生になっても大学生になっても。これって概念的イメージと現実とのギャップっていう単純な問題で片付けてしまいがちだけど、突き詰めて自分の責任でしかないんだな、と気付いた。



じゃあどうするの?



今やるしかないでしょ(東進ハイスクールの誰か)。



ってことなのよね。



今日は昨日の続き。こいつを履き違えちゃいけないんだな、と。もちろん未来に向けてもそうなんだけど、今来の自分は過去の自分への責任みたいなものを背負っているんじゃないかな、って思います。



おはようございます。しごつーです。申し遅れましてすみません。



ま、マクロな目線でもミクロな目線でもそうですよね。未来は足が速く、また足が早い。早く追いつかないと、どんどん差ァつけられて転んで頭打って気付いたときには棺桶の中でございますよ。恐ろしい恐ろしい。



でね、これ書いていて思い出したんですけれども先日読んだ本、「I met a boy.父の日に、バンビ公園で」(著・松尾健史 ディスカヴァー・トゥエンティワン 2008年)っていうのがまさにそんなお話でした。これ手元端末から書いているのでリンクとか貼ってなくてすみません。ご興味がございましたら是非調べてみてください。後日貼っておくのでよろしければどうぞ。面白いフィクションで、実にわくわくする内容でした。素晴らしい。泣きました。



本当に未来というものは、面白いものです。10年前の自分に会えるなら本っ当に伝えたいことが山ほどある。10年後の自分にもそう。共通して云えるのは、どっちにもいっぱい謝んなきゃいけねーな、っていうこと。何て云われるんだろな、10年前の自分とか、10年後の自分に。恐ろしくて想像もできん。



みなさんは、どうでしょう。



「みんなの人生が、輝きますように。」(あとがきより抜粋)



んじゃまたな(^ー^)ノ





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