昨日のつづき | MC452 オフィシャルブログ 「大都会での粋な日々」 Powered by Ameba

昨日のつづき

とかくこの世界は、人が死にすぎる。



この世界、というのは我々の生きる世界のことではなく、この世界。文字に起こされるこの世界のことだ。文字の世界。言うなれば虚構の世界ともいえる。



真実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだが、なんのことはない。真実の世界でそんなに人が死ぬことがあるだろうか。ちょうど手元にあった漫画雑誌一冊分を数えたら、一冊で32人が死んでいた。週に32人が死ぬ世界。これは充分に「奇」なりと言えるだろう。



死、とは人の人生において間違いなく大きな事件であり、それは自らに近い人間のそれであるほどにその重要度を増す。この世界は人間の創りだしたもの。人間に何かを訴えかけ、心を動かそうとするものである以上、死を取り扱うことが多くなるのは然程不思議なことではない。



しかし、あまりに人が死にすぎる。



こんなにもみだりに人が死ぬような世界で、我々は果たして幸せになれるのだろうか。否、死は大きな悲しみを後に遺す。もちろん現実の世界ではその悲しみを乗り越えてゆかねばならないのが当然だ。しかしそれをこの世界でまで強いることは、果たして賢明と言えるだろうか。



あえて断言しよう。この世界で人が死ぬなど、ナンセンスだ。



三島由紀夫の「あ、ここに小説があった」とする世界を描くとすれば、毎週人死の出る探偵小説など小説でもなんでもない。無茶苦茶にも程がある。人は、そう簡単に死ぬべきではないのだ。現実の世界では、人はそんなに簡単には死なない。



そこで、人間の一生において大きな事件となるべき死を描かずに人の心を揺さぶる作品を作りだすにはどうすればよいか。もちろんこれは簡単なことではない。ただその方法を問うのは愚問と言えるだろう。なぜなら、それがわかってしまったら、私どもの仕事がなくなってしまうからだ。






「けんいちー!ごはんできたわよー!」

「はーい。今いくー。」

小説の続きはまた後で。

毎朝おんなじ時間に起き、おんなじ顔ぶれのおんなじ電車に乗っておんなじ学校に行く。毎週おんなじ時間割をこなして帰ってくると、用意された食事をとって風呂に入って寝る。夜が明ければまたその繰り返しだ。僕らはいつもその繰り返しを演じている。いや、ひょっとすると「僕」なんてものはそもそもないのかもしれない。ただ僕は「僕」の役を演じることで日々を暮らしているだけなのかもしれない。だとしたら、本当の僕は、いったいどんな人間なんだろう。



やめた。考えたって意味は無い。ただ何も考えずに今日も「僕」をやるだけだ。明日は今日のつづき。今日は昨日のつづき。







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おはようございます。しごつーです。



初めてですね、タイトルを先に考える、ということをしました。ま、こんなん書く予定ではなかったんで、読んでくださっているみなさん以上に自分がびっくりしているんですが。



昨日の続きです。続きって程関連もないんですが。私はね、あんま好きじゃないんですよ。人が死ぬのが。だからというか、なんか昨今のフィクションはあまり好きなものがみつからなくて。これは死に限らないか。ま、でも殺人犯を見つけるよりは殺人を未然に防ぐ手段を考える方が遥かに建設的であると思うし、好きです。much even far more。



で、なんだっけ。あぁそうそう。三島由紀夫先生の作品についてはほぼ全くといっていい程読んでいないんですが、私は柳田國男先生が好きでして。「遠野物語」でお馴染みの。氏がお亡くなりになってから来月(来週?)でちょうど50年ということで、晴れてあおぞらぶんこ入りですね。こちらは名球会と違って、入っても嬉しいかどうかわかりませんが。ま、私としては柳田國男先生の作品がひろく世上に広まることは大いに素晴らしいことだとおもうんですが。



んー、やっぱケータイで書くよりMacで書いた方がブログは捗るなぁ。



んじゃまたなパー





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