6.私のTwitter事件簿(Twitter社会論レビュー) | MC452 オフィシャルブログ 「大都会での粋な日々」 Powered by Ameba

6.私のTwitter事件簿(Twitter社会論レビュー)

私のTwitter事件簿


4章にて私とTwitterのなれそめ(?)をご紹介したが、ここではその中でも深く私の印象に残っていることをいくつかご紹介したい。


時系列で言うと、まずは「TwitCasting」との出会いである。用語解説の通りであるが、自分がインタラクティブなメディアの配信者になることへの興奮は筆舌し難いものであった。当時は特に内容も無いような放送を毎週のようにしていたように思う。もちろん放送するだけではなく、他のユーザーの放送を見たり、またそれによってもフォローやフォロワーが増えたり減ったりした。文字だけの媒体であるTwitterよりも、映像で顔を見ることで親近感がわく、というところに要因があったように思う。


加えて言及するとこの「TwitCasting」、ユーザーのリテラシーがある程度高い。もっと言うなら、良心的ユーザーが多い印象がある。生放送に限らないとするならば、現在日本でひろく普及しているネット映像メディア媒体はYouTube、ニコニコ動画、Ustream、スティッカム等様々だ。まずもってTwitterは、氏も言う通り「固定アカウントであること」である程度の治安を確保できている。しかし、身も蓋もない事を言ってしまうと、捨てアカウントを作ることでいくらでも治安を悪くすることはできる(もちろんtweet数やフォロワー数でそのアカウントを判断できるし、Twitter社側も基準を設けてユーザーを管理してはいるが)。しかしそれら諸々の事象を加味しても、やはりTwitter、そしてTwitCastingは治安が良い印象だ。これも私を引きつけた要因である。簡単に言うと、居心地が良かった。あるいは、不快感が限りなく少なかったといったところだろう。


続いての出会いは「mixiボイスとの連携」である。正直、「えっ、別のものなのにわざわざ連携させちゃうの?」と言うのが大方の意見だと思うが、当時イベントの告知等をよくしていた私は便宜上連携をしていた。しかし、そうしてみるとはっきりとTwitterとmixiの温度差を感じることとなった。Twitterを何気なく使っていたら、mixiのボイス一覧が自分のtweetで一色になっていたので慌てて連携を解除した。この頃からだろうか、私はTwitterとの向き合い方について考え始めた。言うまでもなくこの温度差を一言で言えば「リアルタイム性」である。Twitterでは流れてしまうTLが、他の媒体ではある程度の賞味期限が付与されてしまうのだ。もちろんBlogを毎日綴る私にこの賞味期限を否定する気は全くないが、花の様に咲いては散る刹那的美しさは私の心をしっかりと掴んで未だに離そうとしない。


この刹那的な美しさに寿命を与えたのがRTだ。フォローしていないアカウントのtweetはもとより、フォローしていてもTLを常に見ていない限り、興味のあるtweetであってもすぐに過去のものとして流れてしまう。これに再び命を吹き込むRTに私は注目した。まだフォロワーの少ない時分にはひたすらネタtweetをRTし続けることもあった(今考えると迷惑としか言いようがない)。

時系列を飛ばす話になるが、このRTというものが日本で波紋を起こしたのは3.11の震災であった。いわゆる「情報RT」の流行であるわけだが、私も一瞬これに便乗してしまった。しかしすぐにやめた。これは三つの理由からであるが、一つは「フォロワーが多いアカウントのtweetを私がRTする必要があるのか?」という意識である。今考えるとこれは我ながら消極的すぎていたように思う。言うまでもないが、何十万人にフォローされているからといって全員にフォローされているわけではない、ということだ。情報を求めていながらそのアカウントをフォローしていない人のためには、積極的に公式RTすべきであったかと思う。二つ目は、自分が情報に踊らされている気分になったことだ。なまじ多くの情報(その真偽に関わらず)がTwitterから流れ混んでくるせいで、気が滅入ってしまっていた。これは自分の主観的感想からであるが、当時同様に感じていた方も多いだろうと思う。そんな中、自身の責任意識からか、フォロワーの多いユーザーが勢力的に情報を発信し、また確かなソースの情報をRTしていた様子には脱帽だ。私としては田辺誠一さんの情報tweetの数が印象深かった(彼のtweetは普段から割と注目させていただいている)。三つ目の理由(これが最も悩ましかったのだが)は、公式RTと非公式RTの使い分け方についてうまく理解できていなかったことだ。前述した各種のまとめBlogをはじめ、その後今日に至る迄にもいくつかのマニュアルを参照し、ようやくその歴史と目的、そしてその用途がわかってきたように思う。本書にも軽く基礎的な知識は解説されており、またTwitterにおいても津田氏が幾度か解説していたように思うが、やはり私としても、これらはしっかりと知識を持って使用した方が無難であるように思う。長くなるので詳しくは各種webサイト等で確認されたい。

話を戻すが、RTが私に与えた反響は大きい。まずもって私はBlogの更新を概ねいつもTwitterに反映しているのだが、ある時友人が「しごつーのBlog、クスっと笑えるよ。」と添えて非公式RTしてくれた日、目に見えてアクセス数が伸びていたのだ(気のせいかもしてれない)。Twitterの力を思い知った。氏の言葉にもあるが、Twitterはそれ自体を云々というより、それを媒介として他の媒体にリンクづけることで初めてその真価を発揮する。Twitterだけの世界でももちろん楽しめるものではあるが、それで楽しめている方も、そうでない方も、Twitterをとりまく包括的メディア、ないしはコミュニケーションに目を向けることで、その楽しみは無限に広がることと思う。


RTにまつわる話としては、有名人アカウントとのコミュニケーションも印象深い。かつては雲の上のような存在であった有名人に、簡単にアクセスできるツールの最たるものがTwitterであるように思う。もちろんそれに一般的な礼儀は必要であることは言うまでもないし、投げたボールが返ってこないことももちろんある(これは有名人に限ったことではないし、かつそれがTwitterの良いところであるように思う)。私について言えば、初めて有名人に送ったメンションがRTにて返信された時、これの感動を実感した。是非気軽にTwitterで色々な人とコミュニケーションをとってみて欲しい。地球の反対側どころか雲の上の人にまで手が届く時代が来ているのだ。


RTについて最後にご紹介せざるを得ない話がある。未だ記憶力にも新しい昨年のアジアカップ日本対韓国戦にて、そのPK戦を観戦する某ユーザーの発した「川島が2回連続で止めたら全裸で会社いく」というtweetが日本中を駆け回り、また海外にまで流れ出した。私もそのRT祭りにまんまと参加したわけであるが、この時まざまざとTwitterの力を目の当たりにさせられた。直後の彼の「日本が決勝への切符を手にすると同時に俺のツイッター人生は終わった。」というtweetにはそれが如実に現れている。余談になるが未だ変わらずネタtweetを続ける彼は、私のお気に入りアカウントの一人である。


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Twitter社会論 ~新たなリアルタイム・ウェブの潮流 (新書y)/津田 大介