「試合勘」。サッカーでよく聞かれるフレーズです。最近もよく聞かれますね。

確かに、試合勘というものは存在するのでしょう。私も、例えば空間認知(ヘディングの時の落下地点の読み)やゴール前のギリギリの戦いに挑む不安感は、試合、それも公式戦の”本気以上”のぶつかり合いの中でしか調節できず、シーズンの頭などではどうしても難しさを感じていました。

ただ、選手からすると、試合勘とはどうでもいいことです。

試合勘にしろ、足の痛みにしろ、コンディションの悪さにしろ、それがあろうとなかろうと結局、大事なことはピッチでのパフォーマンスでしかないからです。

試合勘も痛みもコンディションも、確かに大事なものです。しかし、それはプレーするための前提条件に過ぎません。

試合勘がいい(悪い)、だからいいわけでも、だから悪いわけでもなく、その前提条件の元で、「じゃどうしたらいい?」を問われるのが試合です。

もっといえば、その前提条件は得てして、思い違いによって自分の頭の中で勝手に引き起こされていたり、言い訳として用意されてしまっているだけに過ぎないことも多く、つまり、全ては自分次第、捉え方次第ということです。

何が言いたいか、と言いますと、外からサッカー選手を観るときは、先入観をもたず、ピッチに目を向けて欲しいということです。選手たちはピッチで勝負しているのですから。

試合勘は、試合に出てるかどうかで語りやすいために話題に上りやすいのだと思いますが、痛みやコンディションだって表に出ないところでみんな少なからず浮き沈みしているはずです。

その中で「その時の“今の自分”でいかに勝負するか」に挑む選手たちには、ピッチでのパフォーマンスの良し悪しを先入観なしに評価してあげることこそが、彼らへのリスペクトだと感じる、今日この頃です。