パウロ・アウトゥオリ監督は、私が鹿島に入って3年目の2006年に前年のトヨタカップの優勝監督という実績を引っさげてやってきました。大柄で声が低く、とても威厳がある監督でした。

新人だったアツト(内田篤人)を開幕から抜擢した監督として有名ですが、私もセンターバックの主軸として最も多くの試合に出させていただいた初めての年でした。

パウロは、私が鹿島でお世話になった他の3人のブラジル人監督とは一線を画す、趣の違う監督でした。ボールを使わないフィジカルトレーニングは一切なく、シュート練習のようなパターン練習はあまりやった記憶がありません。代わりに小さいスペースでのインテンシティの高いゲームや戦術的な要素を盛り込んだこだわりのメニューを行っていました。

ミーティングは5分そこそこしか行いません。例年鹿島ではあまり組まれない練習試合も数多く組まれました。私が所属した10年で、あの年だけ明らかに毛色が違う、とても新鮮な1年でした。

パウロは選手にもスタッフにも妥協を許さない男でした。人によってはかなり恐れていたように思います。試合中に切れて、ベンチを殴った次の日にギブスをはめてきたときは驚きました(笑)。

しかし、それは彼なりのマネージメントだったと思います。少なくともプレー面においては、私にとってこれまでで最も相談しやすかった監督でしたし、チームも夏に満男さん(小笠原満男)が抜けても、シーズン後半になるにつれて成長していきました。

最終的に自ら1年で鹿島を去っていきましたが、彼が残したものは大きかったと思います。トニーニョ・セレーゾ監督の元で6年もの間率いられ、良くも悪くも型にはまったところがあったチームに新風を吹き込みました。鹿島がその後収穫の時期を迎えたのは、彼によるところも大きかったと思います。

昨年、スルガ銀行カップでもお会いしましたが、私とアツトは2011年のアジアカップのときに、当時カタールで監督をしていたパウロと会っています。ホテルまで来てくれたパウロは、スラスラと選手の名前を挙げながら、懐かしそうに鹿島の話をしていました。

私は、彼の記憶力に感嘆しながら、彼の中にも鹿島の記憶が美しく残っていることを嬉しく思いました。そして、鹿島の通訳に教えてもらって準備していた「あなたのおかげでここまで来れました。」というポルトガル語を彼に伝えました。