学芸大サッカー部は私が入る前年から関東大学リーグ1部にいて、その頃の大学サッカー界の新興勢力の一つでした。大きな大学ではありませんが、1部に上がったことで私の学年だけで30人くらいは入部したでしょうか。それに伴い、優秀な選手も集まり始めていました。

怪我の回復を待って5月にサッカー部の練習に参加させていただいた私は、確か一週間あまりでAチームに昇格となり、すぐに練習試合でスタメンとして使われました。前年までセンターバックを務めていた方が卒業され、その穴埋めがその年の課題だったことが追い風となり、それ以降山口の無名高校からやってきた、荒削りでがむしゃらなだけの「でくの坊」は一度もスタメンを外されることがありませんでした。

これには松本監督(当時。現大学選抜コーチ)のかなりの我慢があったと思います。明らかに力不足で荒削りでした。私は実は高校の時も同じように、まだそのような力もないのに入部と同時にスタメンに抜擢されていました。お二人のそのような決断と我慢がなれけば、私はプロにはなっていなかったでしょう。

それくらい、今思うとこれは謙遜などではなく本当に下手でした。ただ、山口県の中しか知らなかった私は、全国との距離を少しずつ実感として測りはじめていました。

私が一年の時、関東大学リーグは8チームによる一回戦だけの総当りで、たった7試合の短期決戦でした。私は自分の欠点を隠しながら、ヘディングが思ったよりも通用することを感じていました。高校生の時までも確かにヘディングを得意としていましたが、全国のレベルで通用するほどだとは思っていませんでした。

7試合で3得点をあげた私は、その年の新人王をいただき、そのまま全日本大学選抜にも選ばれました。これも当時の大学選抜の監督が学芸大の部長である瀧井先生だったことが大きく、戦力としてというよりも将来性を見込んでの選出だったことは明らかでした。

私がプロサッカー選手を意識したのはこのときが初めてです。今よりも大学生に対するJリーグのチームの関心は高くなかったので、その頃は大学選抜に入っているかどうかがプロになれるかどうかの一つの目安でした。私は大学選抜に残っていくことを考えていれば、一歩ずつプロに近づいていけるのではないかと考え始めていました。

しかし、大学選抜のレベルは想像を超えていました。超有名高校出身の人たちばかりの中で、一人素人が混じっているようでした。それでも私は2年生まで、その2つ上の大学選抜のメンバーに何度か呼ばれ、その度に目指すレベルを確認しながら、大学に戻り課題に取り組むことを繰り返すことができました。

私は3年生のときを勝負とみなしていました。4年生で迎える大学生のオリンピック、ユニバーシアードのメンバーに入るため、そしてJリーグから声がかかるような選手になるため、この年は一つの大きな勝負所と言えました。2年生のときに課題の克服と怪我とでスランプのようになっていた私は、迷いを振り切りそのときの自分のありったけで勝負しました。

この年、学芸大は、筑波大、駒沢大、国士館大という伝統校と渡り合い、その牙城は崩せなかったものの、共に4強を形成し、私も充実のシーズンを過ごしました。特にこの年、圧倒的な強さを誇っていた駒沢大学が唯一勝てなかったのが私たちで、大学サッカー界のスターだった深井さん(深井正樹)と巻くん(巻誠一郎)の強力2トップとの対戦の中で私は大きく成長させてもらいました。

この年が終わる頃には、大学選抜のキャプテンを任されるようになり、Jリーグのクラブからも声がかかりました。私は、大学に入るときには考えもしなかったプロへの扉を開けました。

大学サッカーはプロになるためのラストチャンスとも言えます。私の大学の2つ上の先輩で、昨年現役を引退されたホリさん(堀之内聖)もよく「4年間あればどんなにでも変われるぞ。」と言葉とその姿勢で教えていただきましたが、一年一年、あるいは一週間一週間で結果を出さなくてはいけないプロの世界と違い、自分の課題にじっくり取り組める時間がありました。大学で初めて全国を知った私は、漠然と「うまくなりたい。」ではなく、一つ一つ課題を明確にして一つずつ取り組むことで、その差を埋めて行きました。