大学受験をなんとかパスした私は、2000年4月、東京に出てきました。東京学芸大学というとよく東京芸術大学と間違えられてか、「芸大?」と聞かれることがありますが、違います(笑)。縮めて言うとしたら「学大」です。東京学芸大学は、教育学部がメインの主に教員養成大学です。

また、東京には東京学芸大駅という駅がとてもいい場所にあって、よく「いいところにあるよね。」と言われますが、現在キャンパスはそこにはなく、中央線の国分寺駅と武蔵小金井駅の間あたりにあります。

山口の小さな島から東京に出てきた私は、一人暮らしももちろん初めてで、毎日の生活でさえ全てが手探りの状態からの再スタートでした。

大学でサッカーを続けるきっかけとなった足の骨折を、高校の卒業式の日にみんなでサッカーをしているときに再発させてしまった私は、5月までサッカーもできない状態でした。

4月の1ヶ月間はとても長く感じられました。当時、関東大学リーグ1部に定着し始めていた学芸大サッカー部は部員の数が急増し、その年からセレクションをするかもしれないという噂が流れていました。練習にも参加できず、数学科でもあった私は真っ先に落とされると不安に感じていました。

結局セレクションは行われず、無事入部は許されたものの、練習に参加できない私は椅子に座って練習を眺める毎日が続きました。私以外のみんなはほとんど体育科だったので、サッカー部の練習や授業の合間、昼の学食などで絆を深めていました。それを横目に、知り合いも一人もいなかった私は、授業が詰まっていても昼は家に急いで帰り、インスタント食品を温めて食べて、またすぐに大学に戻る毎日を過ごしました。

時間が経つのをじっと堪えて過ごした1ヶ月を終えると、私はすぐにサッカー部のみんなと打ち解け、大学から最も近かった私の部屋は、サッカー部の溜まり場になりました。私の部屋の合鍵がサッカー部の間で出回り、授業の空き時間にみんなが入れ替わり立ち替わり、私の部屋でウイニングイレブンをするようになりました。

練習が終われば、みんなで近くの定食屋でくだらない冗談を言いながら夕食を食べて帰り、週末は公式戦や練習試合にみんなで汚いボールを持って満員電車に乗り、いろんなところに行きました。

時代やその大学によって特色は変わると思いますが、当時の学芸大サッカー部はとても真面目にサッカーに取り組む学生が多く、お酒を飲んだり遊びに行ったりということもほとんどありませんでした。今ごろ、みんなもっと遊んでおけば良かったと思ってるくらいではないでしょうか(笑)。

だからでしょうか、私も含めてどこか垢抜けないままのやつらと、どうしようもなくまっすぐにサッカーに打ち込み、どうでもいいことに時間を浪費していたように思いますが、私の人生においてとても貴重で忘れられない時間となっています。