2003年の9月、大学4年生だった僕は鹿島アントラーズに入団することを決めました。その数か月後、秋田さん(秋田豊)の退団が発表されました。

入団すると、マスコミからは秋田さんの質問をたくさん受け、チームメイト、コーチ、フロント、サポーターの皆さんからはいつも秋田さんと重ねて話をしていただきました。僕は憧れだった選手のあとを追うことに期待を感じ、やりがいを感じていました。

1年目から2年間、僕は15番を着けていました。2年目に1年間試合に出続けることができた僕はチームに背番号の変更を希望しました。クラブから僕は3番を渡されました。

3年目の2006年、僕たちは1つもタイトルを取れませんでした。正直に言うと、2年目までは試合に出ることが1番で、タイトルはそこまで意識できていなかったように思います。3番を着けた僕は前年に感じなかったタイトルへのプレッシャーを感じ始めていました。

3年間ノータイトルで迎えた4年目のシーズン、Jリーグで僕たちはスタートに失敗し、9月の時点でガンバとレッズに大きく水をあけられていました。そのときの僕たちの1番のターゲットは現実的にナビスコ杯だと思っていました。

準決勝。僕たちはガンバと対戦し、アウェーゴールの差で敗退しました。そのアウェーゴールを決めたのはセットプレーで僕がマークしていたシジクレイ選手でした。

僕はタイトルをもたらすことができない人間なんだと思いました。試合に負けて泣いたのは多分これが最後だと思います。

2007年の最後の9連勝の間に、実はこの試合がありました。だから、僕たちには9連勝した感覚はありませんでした。僕はタイトルへの想いを強くし、残りの試合を死に物狂いで戦いました。

奇跡の逆転優勝を果たした僕は、3番が少し軽くなったように感じました。それからは少しずつ、僕なりの3番を作れるようになった気がします。

結局、秋田さんの9つのタイトルには及ばず、7つで僕は鹿島を去りました。僕はふと、退団が発表される前に秋田さんにお礼を伝えなくてはと思い、メールをさせていただきました。秋田さんは、「わざわざありがとう!残念だけど、次のクラブでもがんばってね。」とすぐに返事をくださいました。僕はこれで全ての仕事が終わった、と思いました。

僕は「鹿島の3」を着けることができたこと、「鹿島の3」の仕事ができたことを幸せに思っています。