【ヨーロッパで最も危険な男】オットー・スコルツェニー


Photo by Wikipedia


生い立ち

1908年6月12日  オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーンの中産階級に生まれる。

  ウィーン大学在学時 フェンシングで真剣試合(学生決闘)により左頰に向こう傷を受ける。

  1931年 オーストリア・ナチ党に入り、その後 突撃隊に入隊。

   やがて、第二次世界大戦になるとナチス武装親衛隊の前身 親衛隊特務部隊に入隊。

  1942年12月独ソ戦にて負傷して帰国。

退院した後にヒトラー直属の特殊部隊(武装親衛隊のコマンド部隊)第502SS猟兵大隊  別名  SSフリーデンタール駆逐戦隊を発案。

  1943年7月にヒトラーによって指揮官に選ばれた。


スコルツェーニとSSフリーデンタール駆逐戦隊記録


・ムッソリーニ救出作戦  

ヒトラーの盟友で知られるイタリアの指導者 ベニート・ムッソリーニはイタリア国王をはじめとする休戦派により逮捕され、同国にある標高2130メートルのグランサッソ山地のホテルに幽閉されていた。「地上の孤島」となっていた。

1943年9月12日  

アイケ(樫)作戦が実行され、グライダーを上手く利用し、手早く救出したムッソリーニを小型の航空機(短距離離着陸可能)に乗せて救出に成功した。後にムッソリーニはイタリア北部に親独政権を樹立させた。(イタリア社会共和国)


下の画像で黒帽子・黒コートがムッソリーニ

Photo by Wikipedia



・ミッキーマウス作戦、パンツァーファースト作戦

盟友の救出の成功にヒトラーの信頼を得て、翌年 1944年10月  ドイツとの同盟から離脱を狙うハンガリーに対し、摂政 ミクロス・ホルティ提督とその息子を誘拐した。後継の摂政には親独派の人物が就任したためハンガリーは最後まで同盟に留まった。


連合軍が混乱した「偽G.I.」

・グライフ作戦

1944年12月16日 停滞した西部戦線でのヒトラー最後の賭けとなるアルデンヌ攻勢が行われようとしていた。

この攻勢に際してスコルツェーニが指揮する「グライフ」作戦が行われた。

同作戦ではドイツ軍の制服にアメリカ軍から鹵獲した制服を重ね着してジープ(おそらく鹵獲)に乗車したり、米軍戦車に模して塗装したドイツ戦車(パンターなど)を使用。

アメリカ軍の戦線の背後で偵察や後方撹乱を実施。(電話線切断や道路標識の向きを変えたりなどをした模様)


アルデンヌ攻勢は最終的にアメリカ軍により戦局が巻き返されていった。

捕虜となった「偽G.I.(偽米軍人)」はハーグ陸戦条約により敵兵になりすましたスパイとして処刑された。


「ヨーロッパで最も危険な男」

だが、捕虜となった隊員が 当時 連合軍最高司令官  アイゼンハワー元帥を誘拐または殺害するべくスコルツェーニが部隊を直率して戦線の背後に潜入したというデマを流した。


  上記のデマにより米軍将兵は疑心暗鬼に陥った上、同士討ちや味方の誤認逮捕が起きた。

狙われているとされたアイゼンハワーは厳重な警戒の中に置かれてたため「アイクはスコルツェーニの捕虜になった」と言われたという。


スコルツェーニは「ヨーロッパで最も危険な男(人物)」と呼ばれる中、やがてはソ連軍が迫る東部戦線で指揮して ドイツが敗戦すると、アメリカ軍に降伏した。(最終階級は親衛隊中佐)


捕虜となったスコルツェーニは「グライフ」作戦により米軍に偽装したことが戦時犯罪として訴追されるが、連合軍も同様の作戦をしたとして無罪となった。

だが、1948年7月27日に捕虜収容所から脱走。

親ドイツのフランコ政権下のスペインに亡命。

1952年にドイツ政府から「ナチス主義者ではない」と宣言され、海外旅行が可能となる。


元ナチス親衛隊の互助組織「オデッサ」で戦犯容疑者の逃亡支援をしていたとされる。

南米でも元ナチス親衛隊や元ドイツ軍人によるの勢力では反共産主義の軍事独裁政権を支援を行う。

1975年7月6日 スペイン マドリードでガンにより死去した。(67歳没)


参考・引用元

・歴史群像シリーズ  [図説]世界の特殊作戦  Gakken


・カラー版 徹底図解 第二次世界大戦  新星出版社


・Wikipedia


Photo by Wikipedia