友達がたくさんいるようで
いなかったり
友達がいないようで
たくさんいたりする    ぺー君

四年生の時に  お姉ちゃんが スキルス性胃がんで お空に還った。
東京で保育士をしていたので 姉弟として過ごしたのは そんなになかったが
9才ながらに 事態を受け止めてました。

最後の一ヶ月はお姉ちゃんの側に付きっきりだったので ぺー君のお世話はお風呂に帰る二時間のみ

頑張ってくれました。

亡くなる一週間前の⚾大会では  
「お姉ちゃんのためにホームラン打ってくる」て、本当にランニングホームラン打ってきて  最優秀選手賞キラキラ
盾をお姉ちゃんにもらってきてくれました。


あのぺー君が そんなことを 思ってくれたなんてねえーん

緩和ケア病棟に移るとき
主治医から 家族会議を開いて 気持ちを一つにして下さい。
例え、小さくても 家族全員を参加させてくださいね。
亡くなった後の 心のケアのために 外さないことが大事です。
と、念をおされた。

9才であっても 一人前として扱う
お姉ちゃんの病状から余命、緩和ケアに入ると言うことは どんなことが起きても 見守るだけになる。と、言うことを話し 一人一人の気持ちも聞いていった。
これが、お姉ちゃんにできる 最高の事なんだと  言い聞かせて。

私が24時間 付き添えるために必要なことも 取り決めた。
全員が全力を出し切ろう

理解できたかは 分からない。

何が起きるのか…
理解できたとは思ってない。

けど、小さな心に  僕も家族の一員なんだ。
お姉ちゃんを支えるんだ  て言う思いが芽生えたと信じている。

保育士のお姉ちゃん
ぺー君の未来を案じていたけど
自分の命をかけて 育ててくれましたね。

ありがとう…  お姉ちゃん…  

三ヶ月くらい スポ少⚾ママに戻るのに時間がかかりました。
とにかく、誰にも 会いたくなかったから…
でも、ずっと、お母さんなしで頑張ってるぺー君のために 勇気を出して ママたちのもとに戻りました。

なのに …五年生の冬
野球肘をやってしまい 一ヶ月のギブス固定となり
右腕の封印…  一年

左のみでの 試合出場

最終学年を悔しい思いで 過ごし
泣き言言わず 投げれる日を信じて よく、我慢しました。

ここは、本当に誉めたいです星
お空のお姉ちゃんが“大丈夫”
て、ずっと、言ってくれてた
気がしてます。

右肘解禁は 中学に入学してから
部活ではなく 信頼するクラブチームの監督に委ねました。

友達と離れても 一人で やっていけるのか…
親の心配をよそに 七キロ離れたグランドまでを チャリで 爆走です。

何度も言うけど
お勉強はできません

好きが才能  です。



ぺー君 心を鍛えた 右肘骨折