『 約 束 』
前回までのお話し 「約束 1」 「約束 2」
丈部(はせべ)は、なおも待っていた。
――ほそい月が、近くの小山の後ろに沈むまで、待ちつづけた。
このときになって、ようやく彼は、
危惧(きぐ)の念をいだきはじめた。
そして、彼がちょうど家にもどろうとしたとき、
はるか彼方(かなた)に、一人の背の高い男が、
いかにも身軽に、急ぎ足で近づいてくるのが目についた。
そして次の瞬間には、それが赤穴(あかな)であることがわかった。
『おお!』
と叫んで、丈部は飛びつくようにして、兄を迎えた。
『朝から今まで、お待ちしておりました。
……で、やはり、ほんとに約束を守ってくださいましたねえ。
……でも、兄上、さぞお疲れでございましょう。
――さあ、おはいりください。
――万事支度ができております。』
彼は赤穴を座敷の上座へ案内し、
衰えていた灯火を、いそいでかき立てた。
『母上は、』
と、丈部は言葉をつづけた。
『今晩は、少し疲れ気味で、もう床についております。
すぐに起しましょう。』
すると赤穴は、頭をふって、
それにはおよばぬという様子をした。
『では、兄上のよいようにいたしましょう。』
と丈部は言った。
そして、暖かい食べ物や酒を、
旅からかえった兄の前に出した。
赤穴は、食べ物にも酒にも手をふれないで、
しばらく身じろぎもせず、黙っていた。
それから、母の目をさますのを恐れるように、
声をひそめて、こう言った。
『さて、どうしてこのように帰りがおくれたか、
そのわけを話さねばならぬ。
じつは、わたしが出雲へ帰ってみると、
土地の者どもは、
前の藩主、塩冶(えんや)侯の恩義をほとんど忘れてしまって、
さきに富田城を奪いとった
僭主者(せんしゅしゃ)経久(つねひさ)の歓心を
求めているのだ。
ところで、わたしは従弟の赤穴丹治(あかなたんじ)を
訪ねなければならなかったが、
この従弟も経久に仕え、その家臣として城内に住んでいた。
従弟はわたしを説きつけて、経久に目通りさせようとした。
わたしはそれに応じたが、それはおもに、
一面識もないこの新しい藩主の人物を、
探ろうと思ったからだ。
経久はなかなか老練な武士で、ひじょうに勇猛ではあるが、
狡猾(こうかつ)で残忍なやつである。
そこでわたしは、断じてこんな男に仕えられないことを、
知らしておかねばならぬと思った。
ところが、奴の面前をさがると、
経久は、従弟の丹治に命じて私を引きとめ、
邸内に押しこめさせたのだ。
わたしは、九月の九日には、
播磨へかえる約束のあることを申し立てたけれども、
行くのを許してはくれなかった。
それで、夜陰に乗じて、
城から逃れようと思ったが、
しょっちゅう見張りをされていた。
そこで、とうとう今日まで、
約束をはたす術がなかったのだ……』
『今日までですって!』
と、丈部はあっけにとられて叫んだ。
『城はここから、百里以上もあるじゃありませんか。』
『いかにも、そのとおりだ。』
と、赤穴は答えた。
『生きている人間には、徒歩(かち)で一日に、
百里の道を行くことはできないのだ。
しかし、この約束をはたさねば、
おまえによく思われまいと考えた。
そして
「魂(たましい)よく一日に千里を往(ゆ)く」
という古い諺を、思いだしたのだ。
さいわいにも、わたしは帯刀を許されていた。
――それで、やっと
おまえのところへ来ることができたのだ。
……では、くれぐれも母上を大切にしておくれ。』
こう言って、赤穴は立ちあがったが、
それと同時に、すっと消えてしまった。
そこで丈部は、赤穴が約束をはたすため、
自刃(じじん)したことを知った。
未明に、丈部左門は、
出雲の国の富田城にむかって出発した。
松江に着くと、九月九日の晩に、
赤穴宗右衛門が、城内にある赤穴丹治の家で、
切腹したことを知った。
そこで丈部は、赤穴丹治の家におもむき、
この不信をせめて、家族のただなかで丹治を殺し、
自分は微傷も負わないで逃れた。
ところで、経久侯はこの話をきくと、
丈部に追手をかけないように命じた。
というのは、経久侯みずからは、
無法で残忍な人間ではあったが、
真実を愛する人々の心をうやまい、
丈部左門の友情と勇気とを、
嘆称することができたからである。
『約束』 おしまい。
ここまで読んでくださって、誠にありがとでしたぁ。
おしまいっ。
