この記事は、穂吉のブログの「2012-11-09 16:34:44」にUPした『日本の神話179. ~第四部 大和朝廷~ =第十五章 応神(おうじん)天皇=』という記事を再編成してUPしています。
最初のお話し 『日本の神話01』 前回のお話し 『日本の神話178』
この回も、大君、
品陀和気命(ほむたわけのみこと)
(応神天皇(おうじんてんのう))様の御世のお話しです。
倭国(やまと)の軍勢の圧倒的な強さに、
敗北を認めた新羅国(しらぎのくに)の儒礼王(じゅれいおう)は、
倭国に和睦を申し出たのでした。
その後、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)と、
平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)は、
助け出した、秦(はた・しん)の一族を引き連れて
倭国へと帰ってきたのです。
秦一族は、水田農法、堤防造り、街道造り、
また、土木業、建築を倭国に伝え、
さらに、巨大古墳という文化も伝えたのです。
また後の時代においても、
京都の神社仏閣も、この秦一族が建立に関っているのです。
更にその後、百済の王は、
阿知吉師(あちきし)を倭へ遣わして、
鍛冶職人の卓素(たくそ)(人名)、
機織女(はたおりめ)、
杜氏(とうじ)の須須許里(すすこり)(人名)を
倭国へと献上したのです。
又、天皇の母君、
神功皇后(じんぐうこうごう)が、
海の向こうの三韓を制した後、
新羅や百済は、度々貢物を送ってきておりましたが、
書物を、この時に初めて献上してきたのです。
種類は、論語(ろんご)を十巻と、
千字文(せんじもん)が一巻でした。
天皇は、神功皇后が三韓を制した後に、
百済に渡った経験がございます。
その時に、天皇は『文字』を、初めてご覧あそばされたのでした。
この『文字』とは、
ご神託を書き示すために用いるとも、
又、言葉を発せずとも、
意思を伝える事が叶うともお聞きになられたのです。
そして何よりも、
この当時の『文字』は
神が宿る神聖な形であると同時に、
国の貴人にのみに
習得することが許可されていたのです。
倭の者が『文字』を習得する、
とうとうその時がやってきたのでした。
- 追 記 -
『応神天皇の御陵(ごりょう)』も、この『秦一族』が造ったとされており、「古事記」においては、「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」と書かれています。
場所は、現在の「大阪府羽曳野市誉田」の「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)」(全長425m)です。
この古墳の大きさは、「大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(仁徳天皇陵)(全長486m)」に次ぐ、第2位の規模とも云われる、「大前方後円墳」です。
「百済」の『阿知吉師(あちきし)』とは、百済のどこかの村の主長です。人名にの最後に付いている「吉師」、「岐」、「使主」とは「主長の称号」です。
「論語(ろんご)」とは、孔子と「彼の高弟」の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物です。儒教の「四書」の1つです。
「千字文(せんじもん)」とは、「子供に漢字を教える為に作られた、1千の異なった文字が使われた漢字の長い詩」です。
「三韓」とは、「百済」、「新羅」、「高句麗」の三国のことです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
おしまい。

