第二次世界大戦のはじめ方 その4
ヒトラー、経済復興の真相
ヒトラーとナチスが大戦を引き起こした要因は、アーリア人至上主義による領土拡大欲求や、ドイツ国内のナショナリズムの高まりにある。そのためにドイツは軍拡を推し進めたが、過度な軍拡が経済難を引き起こし、みずからを戦争に追いやったことも事実である。
ヒトラーとナチスは、ドイツの危機的財政を立て直したといわれている。実際、ヒトラーは1933年2月1日のラジオ演説にて失業率の改善を約束し、数々の対策を実行している。
具体的な施策としては、国家組織の構造改革と年金維持、公共事業促進による労働と経済活性化などを目指した4ヵ年計画である。代表的な施策はアウトバーン(高速道路網)や港湾開削などの公共事業を推進し、民間企業へも補助金や税還付を行った。民間住宅建設も推進し、結婚への貸付制度も実行した。
こうした施策によって、600万人規模だった失業者は1936年までに100万人にまで激減。大戦前年の1938年には完全雇用をほぼ達成し、実質賃金も1932年比で14%も向上している。
ただし、経済復興のどれほどがヒトラーの功績なのかは、今も議論が絶えない。不況後の自然回復期に入っただけで、ナチス党政権でなくとも成し遂げられたともいわれる。実際、6億ライヒスマルクの借入金を使った雇用創出計画は、クルト・フォン・シュライヒャー前首相からの引継ぎであった。またアウトバーンも20年代から計画は始まっており、目的も軍事用であった。失業対策への貢献も実際は微々たるものだった。
さらにヒトラーにとっての最優先事項は、失業対策ではなかった。再軍備である。ドイツ再軍備はヴァイマル共和国時代から検討されており、1932年11月7日には21個師団分の防衛戦力を整備する「ウムバウ計画」が検討されていた。ヒトラーの最優先事項もまた、再軍備によるドイツ生存権の獲得であった。経済復興や農村部救済、左派との対立は目標達成の手段でしかなく、失業対策の優先も1934年までに終わっている。
債権を財源とする軍拡続行
ヴェルサイユ条約はドイツの軍備を否定していない。しかし最大兵力は10万人以内。海軍も大型艦艇の所有は許可されなかった。対外負債を通じたアメリカとの関係構築にて安全保障を確保していたが、それも世界恐慌で大きく綻びを見せていた。さらに軍需物資用の原材料を輸入しようにも、貿易に必要な外貨と金はほとんどない。こうした財政難の中でも、ヒトラーは再軍備の方針を捨てなかった。
1933年6月8日の閣僚会議にて承認されたといわれる軍事予算は、年間約44億ライヒスマルク。8年間で約350億ライヒスマルクである。1933年度のドイツ国民所得は約430億ライヒスマルクなので、その10%ほどを軍事費にあてる計算だ。
すでに内閣は軍事予算を通常予算監督の対象外とする了承をしており、軍用の予算外資金を管理する特別財務局が会議後に設立されている。軍需産業への投資も拡大し、同年9月には新ドイツ航空省による空軍配備計画、12月にはドイツ国防軍の21個師団の常備軍計画を策定が策定された。1934年に入ると3月に海軍の「補充造艦計画」が開始される。これらの予算を賄ったのは、主に産業界からの重税と各種公債だった。
代表的なものに「メフォ手形」がある。経済大臣のヒャルマール・シャハトが発行を主導し、軍需企業への支払いに用いられた。表向きは「メフォ」という会社が発行する特別手形であったが、その実態はダミー企業を介した疑似公債であった。ロンダリング行為で軍需取引の実態を隠ぺいすると同時に、公的予算外の資金供給を容易にした。それと同時に、現金不使用のためインフレの回避も可能とされたのである。
この手形は1938年春の発行停止までに約120億ライヒスマルクも刷られ、再軍備初期の装備調達などに役立てられている。しかし、1934年度の軍事支出は正規の予算で41億ライヒスマルクと前年度の3倍以上となったがために、英仏は条約違反の疑惑を抱いてしまう。
ドイツは既存装備の保守用と主張するも誤魔化せず、フランスは軍事問題に関する二カ国間協議の拒否を表明している。だが、強硬策に踏み切る国はどこにもなかった。
経済難の解決策としての外地侵攻準備
1935年3月16日の新国防法の制定で徴兵制を導入したドイツに対し、英仏とイタリアは非難を発した。その一方でイギリスはドイツと海軍条約を結ぶなど、やはり足並みは乱れていた。この時期のイタリアにとってドイツは警戒すべき隣国であったので、対抗する場面もあった。独伊の接近は、エチオピア侵攻で英伊の対立が深まった10月以降である。
ドイツの国防軍支出は国家支出総額に対する割合で1934年は18%。そこから1936年には39%と約2倍、1938年には50%となった。ドイツの完全雇用達成は、軍需産業の急成長による労働者需要と、徴兵者を労働者数に加えた水増しによる結果であった。
その一方、民間部門では経済危機の足音が近づいていた。軍拡需要による軍事産業の拡大と、市場統制の促進は原料と食糧需要を急速に増大させていた。輸入需要の激増は外貨不足を引き起こし、際限なき支出と負債増大はインフレと財政難を起こしかねなかった。
ヒトラーも資源と財政の限界は承知しており、シャハトも軍拡停止と民需重視を訴えている。しかし、ヒトラーが選んだのは領土拡大と占領地からの資源・経済収奪であった。そのために、4年後の戦争と資源のアウタルキー(自給自足)を目指した「4ヵ年計画」を1936年9月に発表。11月には批判的なシャハトを解任し、ヘルマン・ゲーリングを責任者とした戦争経済の構築が進められたのである。
あらゆる面で準備不足だったドイツ
オーストリア併合から2ヵ月後の1938年5月ごろには、米英仏の軍拡は始まっていた。融和路線は維持しつつも、やはりドイツの領土拡張は各国に危機感をもたらしていた。ヒトラーも5月ごろに全面軍拡の命令を下したが、ネックは軍事支出の調達である。
シュヴェリン・フォン・クロージク財務大臣とシャハトは短期国債を用いつつ、法人税率の引き上げや地方自治体の財源徴収、ユダヤ人からの財産没収などで資金をかき集めた。また、指導部も4ヵ年計画にて合成ゴムなどの代替資源の開発や、鉄鋼生産の拡大を推進させた。しかし国が必要とする量に達したことは一度もなく、逆に財政支出の拡大と過度の投資過熱によって、インフレと外貨不足を深刻化させてしまう。
軍拡停止を選べないヒトラーにとって、経済回復の手段は戦争しかなかった。外征に成功すれば資源と土地を得られ、経済力の拡大で各方面の負債も消せる。だがそのための軍拡は順調ではなく、1939年に入ると資源不足で軍用鋼鉄が53万トンから30万トンに減少、7月には陸軍兵器の製造数が削減され、空軍の航空機生産量も減らされている。
ヒトラーは1939年3月にイタリア大使へ「あらゆる出来事に直面する用意が調っている」と断言したというが、実際は新鋭兵器の装備は完了しておらず、弾薬の備蓄量は開戦直前でも数週間分だった。西部戦線での戦勝プランもなく、あらゆる面で準備不足だったのが開戦前のドイツ軍であった。
それでも開戦を選んだのは、英仏米の対独準備完了を恐れたからにほかならない。日本と同じく、ドイツもまた時間に追い詰められての開戦だったのである。
※本作は書下ろしです。
【著者紹介】
高石弘明(たかいし・ひろあき)
1986年大阪府生まれ。2010年より編集プロダクションに勤務し、第二次世界大戦や近代の歴史的人物、事件などを中心に執筆。戦国時代や地理に関する執筆も多い。主な書籍は『終戦後の日本軍』(彩図社)『教科書には載っていない日本軍の謎』『太平洋戦争 通説のウソ』(同・共著)ほか。
【参考資料】
『ナチス 破壊の経済 上――1923-1945』(みすず書房)アダム・トゥーズ/山形浩生訳
『ヒトラー 虚像の独裁者』(岩波書店)芝健介
『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波書店)小野寺拓也・田野大輔
『戦争を始めるのは誰か 歴史修正主義の真実』 (文藝春秋)渡辺惣樹