この話をすると、「言葉」という手段自体の曖昧さになってしまうが、


「被災地」この言葉に、違和感のある方はかなりいらっしゃるのではないだろうか?

では、「被災者」という言葉は、はどうだろうか?


私自身、違和感を感じるようになりしばらく経つ。
いつからといわれても分からないが、何か違う。

これは、「支援」という言葉についても同様である。

何か違う。


ここ最近、色んな方と会い、お話させて頂く中で、その答えが少しわかった気がする。
前回のブログ で書かせていただきましたが、
7月6日には、ノンバーバルコミュニケーションを専門とされている、西先生 のワークショップがあり
翌8日には、トラベルライター、カメライター(カメラマン&ライター)の「かさこ 」さんとお話させていただいた。


まず、「被災」という言葉について。

被災したのはどこか?

これは、石巻市雄勝町であり、石巻市であり、宮城県であり、東北であり、日本である。

あくまで、被災という言葉は視点は狭く、日本人であれば全て「被災」していると言える、

その影響はなにか、経済なのか、放射能なのか、果たしてまた別のことか、

「当事者意識があるか、無いか」、それに尽きる。。


いわゆるボランティアについても、色々な想いがあり、現地に入るだろうが、そのあとが一番肝心である。
「行って満足」なのか、
「その後の動き」に繋がるのか。


「支援」という言葉も同様で、誰に対してというと、結局は自分の為である。
誰かの為というのもまた事実であるが、それをしたいという自分の想いをかなえるために行うのである。

それを、実現するには自分だけの思いでは不十分で、相手と創り上げて行くことが必要である。
その結果、当初の想いとは違っても、それが結果としてその方のニーズなら良い。
最も、悪いのがこれが必要だと初めから決めつけて、それを押しつけてしまうことである。


今回の東日本大震災では、余りにも広い範囲、数え切れないほどの人が現地に入り、それぞれに多様な体験をしている。

そのため、「被災地」、「被災者」、「支援」などの言葉は、それこそ多様に捉えられるだろう。
それこそ、人によって違うのは、仕方ないかもしれない。
「復興」という言葉も同じかもしれない。

言葉というもの自体が、そのような抽象的であるが故に、多様な解釈を作ってしまう。
そのため、場合によっては人を傷つけてしまう。


今回上げた言葉は、便宜上使っているとはいえ、意味や使い方については、再考の余地があると思われる。



私自身、石巻市民なので今の活動は「支援」とも思わない。

あるのは、一市民として良い市にしたい、それだけである。

同じように、それぞれの方が、宮城県民、東日本、日本人として、当事者として関わる、それこそが最も重要なこと。


良い国つくろう!!