昨日はデュフレンヌの『眼と耳』第1部の1章と2章を読みました。この本はメルロ=ポンティの現象学に基づいた美学の本で、視覚優勢の風潮に対して聴覚の権利を復権させようと主張しています。

 

全部理解できたわけではありませんが、理解できた範囲で大まかな内容を記したいと思います。

 

第1章

・プレディーヌという生理学者(?)の理論を引き合いに出して、自身の現象学的な立場を対照的に打ち出している。

・視覚と聴覚は触覚から発生してきた。

・精神と感覚の関係。精神が感覚を統治しているというのが主知主義なのに対して、メルロ=ポンティは感覚がすでに精神だという(眼や耳で考える)。

・言語的暗喩にはそれが現れており、本書はそれが単なる言葉の綾ではないことを、証明していく。

 

第2章

・対象から独立した「感覚」それ自体は存在しない。むしろ、メルロ=ポンティが言うように、対象がまず先にある。

・感覚器官が感覚を作り出す(感覚器官>感覚)のではない。むしろ、両者の関係は相互的であり優劣はない。ベルクソンも、見ることは見る必要性あるいは見るべきものから生まれたと言う。

 

この1章と2章は本全体の基本的な立場を説明している導入部分です。メルロ=ポンティの現象学と存在論に依拠するというのがデュフレンヌの立場であるようです。

 

たしかに、日本語でも、何らかの考えを理解したことを「論点が見えた」と言ったりしますが、これが単なる言語上の表現ではなく、真実を表していると主張するというのは、一体どうやって可能なのかとっても気になります。

 

【読む時に着目したい点】

・眼、見ること/聞くこと、見られるもの/聞かれるもの が、現象学的立場からはどのように捉えられているのか。

・音を聞く場面において、聞く者と聞かれるものはどんな関係にあるのか。

・「感覚が精神を生み出す(その逆ではない)」とはどういうことなのか。

 

【何に応用したいか】

・『異邦人』の小柄の女や老人など、人間が機械人形のように見える場面での、音声と眼の分析に応用したい。

・機械感と不条理感情との関係を解明するのにも役立てたい。